第二十七話 99%でも震えてる
「レン」
朝、扉の前に座ると、すぐに声がした。
「なんだ」
「……今日だね」
「ああ」
「……会談、何時から?」
「午後二時だ。今は朝の八時だから、あと六時間ある」
「……六時間」
扉の向こうで、かすかに気配が動いた。
「……長いような、短いような」
「どちらとも言える」
「……レンは、緊張しないの」
「する」
「……してるの?」
「お前が会談に出るんだ。俺が緊張しない理由がない」
少しの間があった。
「……なんか、それ聞いて少し楽になった」
「そうか」
「……一人で緊張してるんじゃないんだって思って」
頭の中に数字が浮かぶ。
イリナの恐怖値:71%
成功率:99%
恐怖値はある。でも、成功率は変わっていない。
午前中、イリナは本を読んでいた。
いつもの本とは違う。薄い冊子だ。扉の隙間から差し出してきたとき、表紙を見ると交渉の実例集だった。
「これ、もう一度読んでおきたくて」
「わかった」
二人で別々に同じ本を読む時間が続いた。
「……ここの部分」とイリナが言った。「クライン使節、過去に似た交渉をやってる。五年前のレーデン国との会談」
「どんな内容だ」
「相手の弱点を最初から把握した上で、あえて別の話題から入る。相手を安心させてから本題に引き込む。罠みたいな手口」
「今回も同じ手を使うと思うか」
「……使うと思う。今回も、最初は婚姻の話から入ってくる。でも本題は属国化の圧力。そっちに誘導しようとしてくる」
「対策は」
「……婚姻の話には乗らない。でも完全に拒絶もしない。『殿下のお気持ちを確認してから』と言って時間を稼ぐ。その間にこちらから交易路の話を出す。ガルディアにとっても利がある話だから、向こうも聞かざるを得ない」
「完璧だ」
「……でも、震えてたら台無し」
「震えても言葉は出る」
「……本当に?」
「出る」
扉の向こうで、小さく息を吸う音がした。
昼過ぎ、トワが廊下に来た。
「久遠さん、会談室の準備ができました。殿下のご用意はいかがですか」
「もうすぐだ」
「国王陛下も同席されます。貴族の方々も数人。クライン使節はすでに到着して待機中です」
「わかった」
トワが少し俺の顔を見た。
「……どうですか」
「99%だ」
「……そうですか」
トワが小さく息をついた。いつもの軽い口調が、今日は少し影を潜めている。
「久遠さん」
「なんだ」
「殿下が、これだけ来るまでに」
「ああ」
「……長かったですね」
俺は何も言わなかった。
長かった、という言葉の意味が、トワにとって何百年分かのものを含んでいることは、なんとなくわかった。
「行ってきます」とトワが軽く言って、廊下を歩いていった。
午後一時半。
扉の前に座ると、中から声がした。
「……レン、入ってきていい」
俺は少し間を置いた。
「いいのか」
「……一人でいるのが怖くなってきた」
扉を開けると、イリナが部屋の真ん中に立っていた。
長衣が今日は少し違う。白ではなく、淡い青だ。城の侍女が用意したのだろう。銀がかった金髪が、灯りを受けて輝いている。
ぷるぷると、肩が揺れていた。
頭の中に数字が浮かぶ。
イリナの恐怖値:83%
成功率:99%
恐怖値が上がっている。時間が近づいているからだろう。でも、成功率は変わらない。
「……震えてる」
「見えてる」
「……99%でも、震えてる」
「震えても、99%は変わらない」
イリナが俺を見た。
正面から、まっすぐに。
「……なんで、そんなに確信してるの」
「お前が十年かけて積み上げたものは、震えで消えない」
イリナの目に、じわりと何かが滲んだ。
でも、こぼれなかった。
唇をきゅっと結んで、こらえた。
「……一緒に来てくれる?」
「ああ」
「……扉の前まで」
「扉の前まで行く」
「……会談中は」
「外で待ってる」
「……終わったら」
「迎えに行く」
イリナが少し息を吸った。
「……行こう」
部屋を出た。
廊下を歩く。イリナの隣を、俺は歩いた。手は繋いでいない。今日は一人で歩く。
廊下を進むたびに、すれ違う使用人たちが足を止めた。イリナに視線が集まる。
びくっ、とイリナの肩が動いた。
でも、足は止まらなかった。
「……見られてる」
「見られてる」
「……震えてる?」
「震えてる」
「……やっぱり」
「でも、止まってない」
イリナが少し俯いた。歩きながら、足元を見ている。
「……止まってない」
「ああ」
会談室の扉が、廊下の奥に見えてきた。
重い木の扉。両脇に衛兵が立っている。扉の前に、トワと国王の侍従が待っていた。
イリナの足が、少しずつ遅くなった。
五歩、四歩、三歩。
「……レン」
「なんだ」
「……怖い」
「わかってる」
「……手、繋いでいい?」
「いい」
イリナの手が、俺の手を掴んだ。冷たい。震えている。
二歩。
「……大丈夫かな」
「大丈夫だ」
「……根拠は」
「99%だ」
一歩。
扉の前に着いた。
俺はイリナの手を、ゆっくりと離した。
イリナが扉を見た。
重い木の扉。向こうにクラインがいる。国王がいる。貴族がいる。
肩が、ぷるぷると震えている。
「……それでも、やる」
小さく、でもはっきりと言った。
誰かに向けた言葉ではなかった。
自分に向けた言葉だった。
扉が、ゆっくりと開いた。
イリナが一歩、踏み出した。
扉が閉まった。
廊下に静寂が戻った。
俺は扉の前に立ったまま、動かなかった。
頭の中に数字が浮かぶ。
イリナの成功率:99%
変わらない。
変わらないまま、イリナは扉の向こうにいる。




