第二十五話 最後の一押し
「答えが出た」
翌朝、扉の前に座ってすぐに言った。
扉の向こうで、気配が動いた。
「……本当に?」
「ああ」
「……何が足りないの」
俺は少し間を置いた。
「動く理由だ」
「……動く理由」
「お前には知識がある。分析力がある。判断力がある。外に出ることもできるようになった。でも、一つだけ足りないものがある」
「……何」
「自分のために動く理由だ」
扉の向こうが静かになった。
「……どういう意味」
「今まで、お前が動いてきた理由はなんだ」
「……レンがいたから」
「他には」
「……この国が危ないから」
「他にはないか」
「……うん」
「どちらも、自分以外のための理由だ」
イリナが黙った。
「自分のために動く、という経験が、お前にはまだない。恐怖を乗り越えるとき、一番強い動機は自分の中から出てくるものだ。外から与えられた理由では、最後の一歩が踏み出せないことがある」
「……わたしが、わたし自身のために動く理由」
「そうだ」
長い沈黙。
「……わからない」
「今すぐわからなくていい。考えてみろ」
「……どのくらい考えればいい?」
「答えが出るまで」
「……出なかったら?」
「出る」
「……なんでそんなに確信してるの」
「お前はこれだけ考えられる人間だから」
また沈黙。今度は、少し違う質感だった。
その日から、イリナの様子がまた変わった。
本を差し出してこなくなった。外出の練習は続けているが、歩きながら何かを考えているような気配がある。視線が遠くを向いている。
声をかけると返事はする。でも、会話が短い。
「今日は何を考えていた」
「……いろいろ」
「本は読んでいるか」
「……読んでる。でも、頭に入ってこない」
「そうか」
「……ねえ、レン」
「なんだ」
「レンは、自分のために動いてる?」
予想外の問いだった。
「……どういう意味だ」
「レンがここにいる理由。仕事、って言ってたけど、仕事以外の部分は、自分のためなの?」
俺は少し考えた。
「自分のためかどうか、よくわからない」
「……わからないの?」
「お前のそばにいることが、嫌じゃない。それは確かだ。でも、それが自分のためなのかどうかは、まだ整理できていない」
「……レンでも、わからないことがあるんだ」
「わからないことは多い」
「……そっか」
イリナが少し考える顔をした。横顔が見える。
「……わたしも、レンのそばにいることが嫌じゃない」
「そうか」
「……操作されてるからかもしれないけど」
「かもしれない」
「……でも、嫌じゃないのは本当」
「それは信じる」
頭の中に数字が動く。
イリナの信頼値:26%→31%
5ポイント。
三日後の朝。
「レン」
「なんだ」
「……答え、出た」
俺は少し前に身を乗り出した。
「聞かせてくれ」
「……わたし、ずっと怖かった。神託が出てから、周りの目が変わってから、ずっと怖かった。でも」
少しの間があった。
「……でも、怖いまま部屋にいたら、わたしが読んできたものが全部、ただの紙になる気がした」
「どういうことだ」
「……十年間、読み続けた。魔法も、戦術も、政治も、外交も。全部頭に入ってる。でも使ったことがない。使わなかったら、ただ知ってるだけの人間になる。それが」
声が少し掠れた。
「……それが、嫌だった。知識が死ぬのが、嫌だった」
俺はその言葉を聞いた。
知識が死ぬのが嫌だった。
自分のためだ。誰かに言われたからでも、国のためでもなく、自分が積み上げてきたものを生きたものにしたい、という理由だ。
「……おかしい?」
「おかしくない」
「……でも、すごく小さい理由な気がして」
「小さくない」
「……本当に?」
「一番強い動機は、いつも自分の内側にある。お前が今言ったことは、十年分の積み重ねから出てきた理由だ。小さくない」
扉の向こうで、しばらく何も聞こえなかった。
それから、かちりという音がして、扉が開いた。
いつもの十センチではない。
半分ほど、開いた。
イリナが扉の内側に立っていた。目が、少し赤い。
「……レン」
「なんだ」
「……成功率、上がってる?」
頭の中に数字が浮かぶ。
イリナの成功率:89%→93%
「上がった」
「……何パーセント?」
「93%だ」
イリナが、少し息を吸った。
「……もう少し、だね」
「もう少しだ」
「……怖い」
「わかってる」
「……でも、やりたい」
俺はイリナを見た。
目が赤い。手が長衣の裾を握っている。でも、足は前を向いている。
「わかった」
頭の中に数字が動く。
イリナの成功率:93%→94%
1ポイント。
「……明日も来る?」
「来る」
「……絶対に?」
「絶対に」
イリナが扉を少し押さえたまま、小さく頷いた。
それから、扉がゆっくりと閉まった。
かちりという音がして、廊下に静寂が戻った。
俺はしばらく、閉まった扉を見ていた。
93%から94%になった。
あと5%。
間に合う。




