第二十三話 それでも離れない
頭の中に数字が浮かんだ。
イリナの信頼値:11%
抱え込み度:89%
……昨日より少し下がった。
翌朝、扉の前に座った。
「おはよう」
返事がなかった。
気配はある。灯りも漏れている。でも、声がしない。
俺は壁にもたれて、そのまま待った。
十分。二十分。
ページをめくる音もしない。
「今日も来る、と言った。来た」
返事がなかった。
「急かさない。ただ、ここにいる」
沈黙が続く。
廊下の窓から、朝の光が差し込んでいる。石畳の上に、細長い影が伸びている。
三十分が経った頃、扉の向こうで小さな音がした。
本を置く音だ。
それから、足音。扉に近づいてくる。
でも、開かなかった。
扉のすぐ向こうに、気配がある。立っている。
「……来るなって言ったら、来ないの?」
小さな声だった。
「来ない」
「……来てほしかったら?」
「来る」
「……どっちにするか、わたしが決めていいの」
「お前が決めることだ」
長い沈黙。
かちりという音がして、扉が例の幅だけ開いた。
十センチ。灯りが廊下に漏れてくる。
「……来ていい」
俺は何も言わなかった。
ただ、そこにいた。
二日目も、三日目も、同じだった。
扉は開く。でも、会話が少ない。
いつもなら本の話をしてくる時間に、何も言わない。俺が話しかけると、短く答える。でも自分からは話さない。
頭の中の数字は、少しずつ動いていた。
イリナの信頼値:11%→12%→13%
ゆっくりだが、下がってはいない。
四日目の朝。
「レン」
「なんだ」
「……昨日、夢を見た」
「どんな夢だ」
「……レンがいなくなる夢」
俺は少し間を置いた。
「どういう夢だ」
「……レンが、急にいなくなった。理由もわからないまま」
「そうか」
「……怖かった」
声に、何かが滲んでいた。
「……わたし、おかしいよね。操作されてたかもしれないのに、いなくなるのが怖いって」
「おかしくない」
「……でも」
「感情に理屈はいらない」
長い沈黙。
「……レンは、いなくなるの?」
「今すぐはならない」
「……いつかは?」
「わからない。でも、今日はいる」
「……明日は」
「明日も来る」
「……明後日は」
「来る」
「……ずっと?」
俺は少し考えた。
「ずっとは約束できない。でも、来られなくなるときは話す」
また沈黙。
「……それで十分」
扉の向こうで、かすかに鼻をすする音がした。
五日目。
「レン」
「なんだ」
「……聞いていい?」
「どうぞ」
「……レンは、わたしのことを動かそうとしてたんだよね」
「そうだ」
「……今も?」
「今も、お前に動いてほしいと思っている。大国の使者と対峙するために」
「……正直だね」
「嘘をついても仕方ない」
少しの間があった。
「……それ以外は?」
「それ以外?」
「……わたしを動かすこと以外で、レンがわたしのそばにいる理由」
俺はしばらく考えた。
「理由を言葉にするのが難しい。でも、仕事だけじゃないとは思っている」
「……どうして」
「お前のことが気になる。それは事実だ」
「……気になるって、どういう意味で」
「うまく説明できない」
長い沈黙。
「……正直すぎて、困る」
「そうか」
「……でも」
また沈黙。今度は少し違う質感だった。
「……操作でもいい」
声が、扉の奥から聞こえた。
「……操作でもいい。いてくれるなら」
俺は扉を見た。
灯りが、かすかに揺れている。
「……馬鹿みたいだって思う?」
「思わない」
「……なんで」
「お前が自分で選んだことだから」
「……選んだって、言えるかな」
「言える」
「……なんで」
「今、お前は俺に来るなと言えた。来ていいと言えた。どちらを選ぶか、お前が決めた。それは選択だ」
また長い沈黙。
頭の中に数字が浮かぶ。
イリナの信頼値:13%→17%
4ポイント上がった。
「……レン」
「なんだ」
「……また、本の話、していい?」
声が、少しだけ戻ってきていた。
「していい」
「……昨日、面白いのを見つけた」
「なんの本だ」
「百年前の外交官が書いた手記。大国の使者を言い負かした話が出てくる」
俺は少し間を置いた。
「読みたい」
「……持ってくる」
扉の隙間から、本が差し出された。
受け取ると、扉が静かに閉まった。
頭の中に数字が動く。
イリナの信頼値:17%→21%
また上がった。
本の表紙を見る。古い革表紙。かすれた文字。
それを、イリナが選んで差し出してきた。
なぜか、少しだけ胸の奥がざわついた。
気にしないことにした。




