第二十二話 操作と信頼
「ガルディアの使者が来たって、聞いた」
扉の隙間から、声がした。
「聞こえていたのか」
「城内の使用人が話してた。わたし、そういう情報は大体入ってくる」
「……そうか」
「わたしの引き渡し要求、でしょ」
俺は少し間を置いた。
「そうだ」
「……そっか」
声に、緊張がある。でも、パニックではない。
「詳しく教えて」
俺は使者の話を、事実だけ伝えた。
クラインという使節が来たこと。第二王子の婚姻申し込みという形を取っていること。明日までに面会の可否を返答しなければならないこと。
イリナは黙って聞いていた。
「……面会は、どうするつもり?」
「断れば向こうの態度が硬化する。受ければ向こうのペースになる」
「……じゃあ、わたしが出ればいい」
「まだ早い」
「でも」
「成功率は71%だ。今の状態で大国の外交官と対峙するのは難しい」
「……わかってる。でも、わたし以外に誰がやるの」
俺は答えなかった。
答えが出なかった、というより、イリナの言葉が正しかった。
その夜、俺は自分の部屋で天井を見ていた。
明日の返答をどうするか。
クラインをどう動かすか。
イリナをどう守るか。
考えながら、ふと、別のことが頭に浮かんだ。
トワの言葉だ。
「久遠さんは、やっぱり誘導していますよ」
誘導。
俺はイリナを誘導していたのか。
していた、と思う。
毎日扉の前に座ったのは、信頼を積み上げるためだった。本を読んだのは、会話のきっかけを作るためだった。外に出る練習をしたのは、成功率を上げるためだった。
全部、イリナを動かすための手順だ。
それは仕事だから当然のことだと思っていた。でも、今こうして並べてみると、少し違うものに見えてくる。
イリナは今、俺を信頼し始めている。
その信頼は、俺が意図的に作ったものだ。
翌朝、扉の前に座った。
「おはよう」
「……おはよう」
「昨日の話の続きをしたい」
「……うん」
「使者への返答だが、一週間待ってほしいと伝えることにした。その間に準備を整える」
「……準備って」
「お前が対応できるかどうか、見極める」
「……成功率が71%のまま?」
「上がれば動く」
少しの間があった。
「レン」
「なんだ」
「一つ、聞いていい?」
「どうぞ」
「……レンって、わたしのことを、どう思ってる?」
俺は少し考えた。
「補佐する相手だ。大事にしたいと思っている」
「……仕事上の話だけ?」
「今のところは、そういうことになる」
また沈黙。
「……レンは、わたしが動けるようになるために、ここにいるんだよね」
「そうだ」
「……そのために、毎日来てくれてたんだよね」
「そうだ」
「……本の話をしてくれたのも」
「そうだ」
「……外に出る練習も」
「そうだ」
声が、少しずつ低くなっていった。
「……全部、そのためだったんだ」
「仕事だ。でも」
「……でも?」
俺は少し間を置いた。
「仕事だけで来ているとは思っていない、とも思っている」
「……どういう意味」
「うまく説明できない。でも、仕事だけで毎日来ているとは思っていない」
長い沈黙が続いた。
扉の下の隙間から、灯りが揺れている。中に気配がある。動いていない。
「……レン」
「なんだ」
「わたし、操られてる?」
静かな声だった。
責めているわけではない。ただ、確認している、という声だった。
俺は答えなかった。
答えが、出なかった。
操作と誘導の境界線は曖昧だ、と前に言った。目的が相手の利益になるなら操作とは呼ばない、とも言った。
でも、イリナに対して俺がやってきたことは、どちらだったのか。
「……答えられないんだ」
イリナの声が、少し変わった。
「……そっか」
「イリナ」
「……いい。わかった」
「わかったとは」
「……レンが答えられないってことが、答えだから」
扉の向こうで、かすかに何かが動く音がした。
頭の中に数字が浮かぶ。
イリナの信頼値:24%→11%
急落した。
「イリナ」
返事がなかった。
「聞いてくれ」
「……聞きたくない」
「少しだけでいい」
沈黙。
「……誘導していた。それは本当だ」
「……うん」
「でも、嘘はついていない」
「……嘘と誘導は違うって言いたいの」
「違う、とは言えない。でも」
「……でも?」
俺は言葉を探した。
いつもは言葉が先に出てくる。でも今は、何が正しいのかわからなかった。
「……お前のことが、大事だと思っている。それは本当だ」
長い沈黙。
「……今は、ひとりにして」
声が、掠れていた。
俺は扉を見た。
頭の中に数字が浮かぶ。
イリナの信頼値:11%
抱え込み度:94%
「……わかった」
俺は立ち上がった。
廊下を歩き始めながら、なぜか足が重かった。
仕事として動いてきた。それは間違いではない。でも、いつの間にか、仕事だけではなくなっていた。
イリナの「今日も来る?」という声。
「変な人」という言葉。
「ありがとう」と言った声。
全部、頭の中にある。
……なんで俺はこんなに、引き返したいと思っているんだ。
廊下の石畳を、ただ歩き続けた。




