第二十話 隣にいる
頭の中に数字が浮かんだ。
イリナの恐怖値:81%
……まだ高い。
帰り道だった。
貴族たちとすれ違ったあと、イリナの足が止まっていた。壁に片手をついて、肩がぷるぷると震えている。息が浅い。視線が定まらない。
俺は少し考えた。
このまま歩かせるのは難しい。かといって、ここで立ち止まり続けるのも良くない。廊下の真ん中で震えているイリナの姿を、誰かに見られる可能性がある。
「イリナ」
「……っ」
「手を出せ」
「……え」
「手だ」
イリナがぷるぷると震えたまま、おそるおそる手を差し出した。
俺はその手を取った。
細い。思ったより冷たい。そして、触れた瞬間にびくっと震えた。
「……っ」
「痛いか」
「……痛くない。ただ、その……」
言葉が途切れた。
頭の中に数字が動く。
イリナの恐怖値:81%
羞恥値:73%
……羞恥値。初めて出た項目だ。
「歩ける」
「……歩けるか、わからない」
「歩けなくても引っ張る」
「……っ、それは」
「冗談だ。歩けるペースで歩く」
一歩、踏み出した。
イリナの手を引いたまま、ゆっくりと。
最初の一歩は重い。足が引きずられるような感覚がある。でも、二歩目はまだ動いた。三歩目も。
「……歩けてる」
小さく、イリナが言った。
「歩けてる」
「……そう」
頭の中に数字が動く。
イリナの恐怖値:81%→74%
7ポイント下がった。手を繋いでいることで、少し落ち着いてきているのかもしれない。
北棟の廊下に戻るには、東棟を抜けてもう一本渡り廊下を通る必要がある。
俺は少し考えて、別の道を選んだ。
使用人が通る裏廊下だ。狭くて薄暗いが、人とすれ違う可能性がほぼない。遠回りになるが、今のイリナには正面廊下を歩くのは難しいと判断した。
「こっちだ」
「……どこ」
「遠回りになるが、人が少ない」
「……そっちにする」
迷わず言った。
裏廊下は天井が低く、松明の数も少ない。でも静かだった。足音だけが響く。
イリナの手が、少しずつ力を緩めてきた。
最初はきつく握っていたのが、今は普通に繋いでいる程度になっている。
頭の中に数字が動く。
イリナの恐怖値:74%→63%
「……レン」
「なんだ」
「手、繋いでもいいの」
「繋いでいるだろう」
「……いいのかって聞いてる」
「構わない」
「……そんなあっさり言う?」
「何か問題があるか」
「……変な人」
「よく言われる」
「……また言いたかった」
「何回言うんだ」
「……言いたいから言う」
声が、さっきより落ち着いていた。
裏廊下を抜けて、北棟への短い通路に入った。
ここまで来ると、もう人とすれ違う心配はほぼない。
俺は歩調を少し落とした。急ぐ必要もない。
「……さっきの貴族、何人いたの」
「四人だ」
「……わたし、見られた?」
「少し見られた」
「……そっか」
沈黙。
「でも通り過ぎた」
「……そうだね」
イリナが少し俯いた。歩きながら、足元を見ている。
「……足、震えてた?」
「震えてた」
「……見てたの」
「見てた」
「……恥ずかしい」
「なぜ」
「……レンの前で震えてるのが」
俺は少し考えた。
「俺の前で震えていけない理由はない」
「……でも」
「震えてても、中庭まで行った。それは変わらない」
扉の向こうで、イリナが黙った。
いや、扉はない。今は隣を歩いている。
「……中庭、よかった」
「ああ」
「……また行ける?」
「行ける」
「……何回でも?」
「何回でも」
「……そっか」
声が、少し柔らかくなった。
北棟の廊下に入った。
見慣れた薄暗い石の廊下。イリナの部屋まで、あと少しだ。
「……レン」
「なんだ」
「怖くなったとき、名前呼んでくれてよかった」
「「俺を見ろ」と言った」
「……うん。それで、少し、戻れた気がした」
頭の中に数字が浮かぶ。
イリナの信頼値:14%→19%
5ポイント。
「……また怖くなったら、名前呼んでもいい?」
「呼んでいい」
「……すぐ来てくれる?」
「来る」
「……本当に?」
「本当に」
イリナが少し顔を上げた。俺を横目で見て、またすぐ視線を前に戻した。
「……変な人」
「三回目だ」
「……数えてたの」
「数えてた」
扉の前まで来た。
イリナが俺の手を、ゆっくりと離した。
扉に手をかけて、中に入ろうとして、一度止まった。
振り返らないまま、小さく言った。
「……ありがとう」
俺は少し間を置いた。
「ああ」
扉が閉まった。
かちりという音がして、廊下に静寂が戻った。
頭の中に数字が浮かぶ。
イリナの信頼値:19%→24%
5ポイント。
俺はしばらく、閉まった扉を見ていた。
今日、イリナは初めて「ありがとう」と言った。
それまでの言葉は全部、「変な人」だった。
なぜか、少しだけおかしかった。




