第十九話 成功率、71%
頭の中に数字が浮かんだ。
イリナの成功率:71%
……上がった。
そこまで来るのに、十日かかった。
扉を毎日少しずつ広く開ける。やったのはその一つだけだった。一センチ、また一センチ。廊下の空気が部屋に入ってくる量が、少しずつ増えていく。外の音が、少しずつ聞こえるようになっていく。
数字はゆっくりと、でも確かに動いた。
57%、61%、64%、68%、71%。
今朝、確認したとき、その数字が出た。
「……71%になった」
扉の隙間から、声がした。レンが言う前に、イリナのほうが先に言った。
「ああ」
「……出るの」
「出る」
長い沈黙。
「……今日?」
「お前が決めていい。今日でも、明日でも」
また沈黙。
それから、扉がゆっくりと開いた。
今までよりずっと大きく。
廊下に出たイリナを、俺は初めてまともに見た。
廊下で一瞬目が合って逃げていったときとは違う。今は隣にいる。
白い長衣が、廊下の光を受けて淡く輝いている。銀がかった金髪が、肩の上で静かに揺れる。均整のとれた体つき。整いすぎた顔立ち。廊下の石の壁を背景にして立っているだけで、絵になっていた。
こういう人間が実在するのか、と思った。思っただけで、口には出さなかった。
ただ、その顔が今、ひどく強張っている。
両手が長衣の裾をぎゅっと握っている。唇を一文字に結んで、視線は真正面の廊下の壁を見ている。目が合うのを避けているのか、それとも壁を見ることで気を紛らわせているのか。
ぷるぷると、かすかに肩が震えていた。
頭の中に数字が浮かぶ。
イリナの恐怖値:68%
外出継続意志:54%
54%。ぎりぎりだ。
「歩けるか」
「……歩ける」
声が少し上ずっている。でも、足は動いた。一歩、また一歩。おそるおそる、確かめるように。
「急がなくていい」
「……わかってる」
「どこまで行きたいか、決めてあるか」
「……中庭まで。東の中庭」
「わかった。案内する」
俺は隣を歩き始めた。
イリナの歩調に合わせて、ゆっくりと。
北棟の廊下から東棟に抜けるには、一本の渡り廊下を通る必要がある。
渡り廊下は、片側が石の欄干だけで外に開いていた。
風が吹き込んでくる。空が、そのまま見える。
イリナの足が、一瞬止まった。
「……空、広い」
「ああ」
「……久しぶりに、ちゃんと見た」
一言だけ言って、また歩き始めた。
頭の中に数字が動く。
イリナの恐怖値:68%→61%
少し下がった。空を見て、何かが少し緩んだのかもしれない。
東棟の廊下に入ったところで、前から侍女が二人やってきた。
盆を持って歩いてきた侍女たちが、俺たちの姿を見て足を止めた。
一瞬だけ、視線がイリナに向いた。
びくっ、とイリナの肩が跳ねた。
頭の中に数字が急上昇する。
イリナの恐怖値:61%→79%
外出継続意志:54%→38%
まずい。
「こちらへ」
俺は廊下の脇に一歩寄って、イリナと侍女たちの間に体を入れた。
侍女たちが会釈して通り過ぎていく。足音が遠ざかる。
廊下に静寂が戻った。
イリナは壁際に寄って、壁に片手をついていた。肩が上下している。息が浅くなっている。
「……大丈夫か」
「……大丈夫」
大丈夫には聞こえなかった。でも、その場から動かなかった。
「戻るか」
「……戻らない」
「無理しなくていい」
「……無理してない」
頭の中の数字を確認する。
イリナの外出継続意志:38%→43%
少し上がった。
「……行く」
イリナが壁から手を離した。
震えはまだある。でも、足が前を向いた。
東の中庭に着いたのは、廊下を出てから十分ほど経った頃だった。
石畳の広場。中央に小さな噴水。午前の光が石畳の上に落ちている。
人の気配はない。トワが事前に確認してくれていた。
イリナが中庭に一歩踏み出した。
足が石畳を踏む。
空が、広い。
廊下の窓から見えた青とは違う。遮るものが何もない。ただ、広い空がそこにある。
イリナがしばらく、動かなかった。
頭の中に数字が動く。
イリナの恐怖値:79%→55%
大きく下がった。
「……広い」
ぽつりと、イリナが言った。
「ああ」
「……こんなに、広いんだ」
声が、さっきより少し落ち着いている。震えはまだあるが、肩の力が少し抜けてきた。
俺は隣に立ったまま、何も言わなかった。
言う必要がなかった。
しばらく二人で、中庭の石畳の上に立っていた。噴水の水音だけが聞こえる。風が吹いて、イリナの金髪が少し揺れる。
「……レン」
「なんだ」
「ここ、また来ていい?」
「いつでも来ていい」
「……明日も?」
「明日も」
イリナが少し俯いた。
「……よかった」
その声が、どこか安堵したように聞こえた。
帰り道、東棟の廊下に戻ったところで、遠くから複数の足音が聞こえてきた。
貴族らしき男たちが、こちらへ向かってくる。
頭の中に数字が流れる。
接近する人物たちの好奇値:急上昇中
まずい。
イリナの数字を確認する。
イリナの恐怖値:55%→88%
一気に上がった。
ぷるぷると、さっきより強く肩が震え始める。足が止まった。
「……っ、だめ、見られる、だめ、だめ……」
小さく、でも切迫した声で言った。
視線が泳いでいる。足が動かない。
頭の中の数字が、さらに上がっていく。
イリナの恐怖値:88%→94%
外出継続意志:43%→8%
「イリナ」
「……っ」
「俺を見ろ」
「……っ、む、無理、見られる、無理……」
「俺を見ろ」
もう一度、静かに言った。
イリナの視線が、泳いだまま、少しずつ俺のほうを向いた。
目が合った。
「ここにいる」
短く言った。
イリナの震えが、少しだけ止まった。
足音が近づいてくる。通り過ぎていく。また遠ざかっていく。
廊下に静寂が戻った。
頭の中に数字が浮かぶ。
イリナの恐怖値:94%→81%
まだ高い。でも、下がった。
イリナは俺を見たまま、動かなかった。
肩がまだ、ぷるぷると揺れている。
「……帰る」
掠れた声で言った。
「ああ。帰ろう」
俺は先に歩き始めた。
イリナが後ろからついてくる足音がする。
北棟の廊下まで戻って、扉の前まで来た。
イリナが扉を開けて、中に入った。
振り返ることなく、扉が閉まった。
かちりという音がして、静かになった。
頭の中に数字が浮かぶ。
イリナの成功率:71%
変わっていない。
でも、今日、イリナは外に出た。
石畳の上に立った。空を見た。「広い」と言った。
それは、数字には出ない何かだ。
俺はしばらく、閉まった扉を見ていた。




