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引きこもり天才姫は俺にしか懐かない〜存在しない者が、一人の姫の一生を見届ける〜  作者: アルコール吸引マシン5号
序章 扉が開くまで

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第二話 異世界転職のご提案

「では改めまして、ご説明しますね」


トワが膝の上で手を組む。

ベンチに並んで座ったまま、深夜の路地裏で異世界転職の説明会が始まった。



「まず彼岸院ひがんいんについてですが、簡単に言うと、世界と世界の間を管理する組織です。異世界への人員の移送、現地でのミッション管理、帰還が不可能になった場合のフォロー、諸々まとめてやっています」


「現地でのミッションというのは」


「世界によって違います。今回は、ドレツァ王国という国の立て直しです。具体的には、ある人物の補佐をしていただくことになります」


「引きこもりの」


「そうです。イリナ・ソーニャ・ドレツァ王女殿下。第一王女です」


王女。

俺はその単語を頭の中で一度転がしてみる。


「引きこもりの王女の補佐をしろということか」


「そうなります」


「なぜ俺が」


トワが少し間を置く。


「久遠さんにつきましては、向こうで能力が開花します。その能力が、殿下の実践力を引き出す鍵になる可能性が非常に高い。詳細は神託を受けてみないとわかりませんが、確度は高いと見ています」


「根拠は」


「長年の経験です。それ以上はちょっと説明が難しいんですが」


煙に巻かれた感じはある。でも嘘をついているようには見えない。

心理学をかじった人間の直感が、そう言っていた。直感を根拠にするのは不本意だが。


「王女の現状を教えろ。引きこもりになった経緯も」


「はい、そこは重要なので詳しく」


トワが姿勢を正す。説明モードに切り替わる様子がわかりやすい。


「ドレツァ王国は東欧風の小国です。軍事も経済も弱い。大国から属国化の圧力を受けています。国内の貴族も派閥争いで機能不全。弱小国が生き残るには切り札が必要でした」


「それが王女か」


「殿下が幼いころ、神託が下りました。すべての魔法を使えること、読んだものを完全に記憶する頭脳。どちらも前例のない能力です。ドレツァの切り札どころか、周辺国まで巻き込んで大騒ぎになりました」


「大国が欲しがった」


「当然です。小さい子供が急に国宝扱いになった。周囲の目が変わった。宮廷の空気が変わった。幼い殿下には、それが耐えられなかった」


コンビニの明かりが遠くで揺れている。

深夜二時を過ぎた路地裏に、人の気配はない。


「引きこもりになった後は」


「部屋から一歩も出ず、ひたすら本を読み続けた。魔法理論、戦術、政治、外交。今や知識だけなら大陸屈指です。でも十八になった今でも実践は一切できない。人前に出られない。声も震える」


「使えない姫、というわけか」


「姫が使えないんじゃなくて、誰も使えなかっただけです」


トワの声が、少しだけ低くなった。

責めているのか、哀れんでいるのか、判断できない。ただ、軽い口調の奥に何か別のものが混じった気がした。


「久遠さんの仕事は、殿下を外に出すことです。もっと正確に言うと、殿下が自分の力で外に立てるようになるまで、隣にいること」


「隣にいるだけか」


「それが一番難しいんですよ」


難しい理由はなんとなくわかる。

信頼されなければ、隣にいても意味がない。引きこもりの信頼を得るのは、普通の人間関係よりずっと繊細な作業になる。


「報酬は」


「衣食住の保証と、王国からの相応の地位と給与です。ただ率直に言うと、お金より働き甲斐のほうが大きい仕事です」


「正直だな」


「嘘をついても仕方ないので」


俺はしばらく黙った。

夜風が吹くたびに、コンビニの袋がどこかでかさかさと鳴る。


条件面での不満はない。元の世界に戻れないことは痛いが、今の俺に戻る場所はない。能力が開花すると言うが、その根拠が「長年の経験」では弱い。でも確かめる方法もない。


問題は一つだけだ。


「トワ」


「はい」


「お前は何者だ。彼岸院のエージェント、それだけか」


間があった。

コンビニの自動ドアが、また遠くで開く音がした。


「……今は、エージェントです」


「今は、という言い方をした」


「気のせいじゃないですか」


「気のせいじゃない」


トワが俺を見る。童顔の奥で、何かが一瞬だけ動いた。


「向こうに行けば、わかります。今は言えないことがあって、すみません」


嘘ではない。でも全部話してもいない。

その中間のどこかにいる、という感触があった。


「……わかった」


「行っていただけますか」


「ああ」


返事をした途端、トワがほっと息を吐く。

営業スマイルとは違う、もっと素に近い表情だった。


「ありがとうございます。では、準備を」


「待て。移動方法は」


「少し特殊な方法です。久遠さんには元々、向こうの世界と繋がるものがありますので。私はそのきっかけを作るだけです」


「意味がわからない」


「向こうに行けばわかります」


「向こうに行けばとはどういう」


「ではいきます」


「聞け」


ぐ、と世界が歪んだ。


歪む、という表現が正しいかどうかわからない。

視界が消えたわけではない。音が消えたわけでもない。ただ、全部が一瞬だけ「ない」になった。存在が薄くなるような、輪郭がぼやけるような感覚。


それが、すぅと消えた。



目を開けると、石造りの廊下があった。


松明の明かりが揺れている。石の壁。石の床。空気が違う。湿度も温度も、さっきまでと別物だ。


「お疲れさまでした」


トワが隣に立っている。表情は変わっていないが、どこかほっとしているように見える。


「……ここが」


「ドレツァ王国、王城の客間前です。今夜はこちらにお泊まりいただいて、明日から正式にご案内します」


石造りの天井を見上げる。

松明の煙が細くたなびいている。


異世界。

言葉にするとあっけないが、俺は今、別の世界にいる。

元の世界の六千円も、底をついた口座も、橘先生の澄んだ笑顔も、全部向こう側に置いてきた。


「久遠さん」


「なんだ」


「よく来てくれました」


トワの声に、さっきまでとは違うものが混じっていた。

営業トーンでも説明口調でもない、もっと静かな、何かが。


俺は答えなかった。

答え方がわからなかった、というのが正直なところだ。


「明日、神託の儀があります。早めに休んでください」


「神託というのは全員が受けるものか」


「王城に招いた外来者には受けていただいています。ほとんどの方は何も出ません。久遠さんの場合は……まあ、お楽しみに」


「その言い方が一番信用できない」


「ふふ」とトワが笑う。「おやすみなさい、久遠さん」


扉が閉まる。


石造りの部屋に、一人残される。

ベッドは思ったより柔らかかった。天井の松明が揺れるのを見ながら、俺はしばらく目を開けていた。


向こうの世界では、今頃俺は死んだことになっているのだろう。

誰が気づくかは、わからない。気づく人間がいるかどうかも。


それよりも、と思う。


明日、何が出る。


神託とやらで、俺には何が現れるのか。


松明が一度大きく揺れて、また静かに燃え続けた。

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