第十八話 外に出ろ
「レン、昨日の続きを聞いてもいい?」
「どうぞ」
「あの手記の外交官、震えながら言い切ったって書いてたけど、その後どうなったか覚えてる?」
「交渉は成立した。相手国が折れた」
「……震えてても、ちゃんと言葉は届いたんだ」
「届いた」
扉の向こうで、少しの間があった。
「……そういうこと、もっと教えて」
「何を」
「震えながら動いた人の話。たくさんある?」
「探せばある」
「……探してきて」
「わかった」
ページをめくる音が始まった。でも、いつもより速いリズムだった。何かを確かめるように、急いでいるように。
頭の中に数字が浮かぶ。
イリナの成功率:51%→54%
それから三日間、俺は城の書庫で資料を探した。
震えながら動いた人間の記録。怖がりながら前に出た人間の話。引きこもっていた人間が何かのきっかけで動き始めた事例。
そういうものが、歴史の記録の端々に残っていた。
名もない商人の日記。城仕えの女官の手記。神官の記録。どれも派手な話ではない。でも、怖かった、震えた、それでもやった、という言葉が、静かにそこにあった。
毎朝、それを一つずつ扉の隙間から差し入れた。
「これ、読んでみろ」
「……何の本」
「百年前の女官の日記。王の代替わりで全員解雇になりそうになったとき、一人で大臣に直談判した話が書いてある」
「……女官が、大臣に?」
「怖くて足が震えたと書いてある。それでも行った」
受け取る音がした。
翌日。
「あの日記、読んだ」
「どうだった」
「……泣いた」
俺は少し間を置いた。
「なぜ」
「なんか、わかる気がして。怖いのに行く気持ち。でも……」
「でも?」
「……わたしには、行く理由がないから」
その言葉を、俺はしばらく頭の中で転がした。
行く理由がない。
部屋の中にいれば安全だ。本がある。知識がある。誰にも怖い目を向けられない。
「お前には、ある」
「……何が」
「この国を、知っている人間がお前しかいない」
「知ってるだけじゃ意味がない」
「知っていて、動ける人間がいれば意味がある」
扉の向こうが静かになった。
「……レン」
「なんだ」
「わたしが動けなかったら、この国はどうなるの」
「三ヶ月で大国に属国化される」
「……そっか」
また沈黙。今度は長かった。
その日の夜、俺はしばらく天井を見ていた。
成功率:54%。
このペースだと、三ヶ月で99%には届かない。信頼を積み上げるだけでは間に合わない。何か、もう一段階必要だ。
扉越しの会話だけでは、外の空気に慣れることができない。
壁の向こうにいる限り、人の視線に慣れることができない。
答えは一つしかない。
外に出てもらう必要がある。本番ではなく、練習として。
翌朝。
「一つ、提案がある」
「……なに」
「外に出る練習をしてほしい」
扉の向こうで、気配が固まった。
「……外」
「本番じゃない。練習だ。城の中庭に出るだけでいい。人のいない時間帯を選ぶ。俺が隣にいる」
「……無理」
「なぜ」
「外に出たら、誰かに見られる。怖い」
「人のいない時間帯を選ぶと言った」
「それでも……」
「廊下に出たことはある。ドアを開けたこともある」
「……あれは、レンがいたから」
「今回も俺がいる」
長い沈黙が続いた。
扉の下の隙間から、灯りが揺れている。中に気配がある。動いていない。
「……怖い」
「わかってる」
「怖い、って言ってるのに、なんで」
「怖くてもやれることを、お前は知ってるはずだ」
「……知らない」
「女官の日記を読んだだろう」
「……あれは、別の人の話」
「そうか」
俺はしばらく黙った。
急かすべきではないかもしれない。でも、時間がない。三ヶ月という期限は変わらない。
「イリナ」
「……なに」
「お前が動かなくていい理由を、俺は一つも思いつかない」
「……っ」
「怖いのはわかる。でも、怖いままでいい理由にはならない」
扉の向こうで、小さな音がした。
衣擦れの音だ。動いている。
「……レンは、わたしのことを怖いって思ったことある?」
唐突な問いだった。
「ない」
「なんで」
「怖がる理由がないから」
「……わたしは、ずっと怖かった。外が。人が。目が」
「知ってる」
「知ってるのに、なんで外に出ろって言うの」
「怖いままでいることと、怖くても動くことは、別だから」
また沈黙。
頭の中に数字が浮かぶ。
イリナの外出意志:19%
恐怖値:77%
19%。低い。でも、ゼロではない。
「……もし出て、誰かに見られたら」
「俺が間に立つ」
「……もし、声が出なかったら」
「出なくてもいい。今日は出るだけでいい」
「……もし、足が動かなかったら」
「そのときは戻ればいい」
扉の向こうで、長い沈黙が続いた。
ページをめくる音もしない。灯りだけが揺れている。
「……何パーセント?」
小さな声だった。でも、はっきりと聞こえた。
「何が」
「わたしの、成功率」
俺は少し間を置いた。
「今は54%だ」
「……低い」
「上がってきてる」
「……何パーセントになったら、外に出ていい?」
「71%になったら、出よう」
「……71%」
「ああ」
また長い沈黙。
「……今から上げる方法、ある?」
俺は扉を見た。
灯りが、かすかに揺れている。
「ある」
「……教えて」
「まず、扉を少し広く開けてみろ。今日から、毎日少しずつ」
しばらく何も起きなかった。
それから、かちりという音がして、扉が開いた。
いつもの一センチか二センチではない。
十センチほど。
灯りが廊下に漏れてくる。
「……これで、上がる?」
「上がる」
頭の中に数字が浮かぶ。
イリナの成功率:54%→57%
3ポイント。
「……また明日」
「ああ」
扉が、十センチの幅のまま、そこにあった。




