第十七話 まだ早い
頭の中に数字が浮かんだ。
イリナの成功率:43%
……43%か。
三ヶ月という期限が決まってから、俺は毎朝この数字を確認するようにした。
成功率、というのは俺が勝手につけた名前だ。正確に言えば、確率可視化が弾き出す「イリナが人前で力を発揮できる確率」のことだ。この能力は意識を向けた相手の状態を数字にする。イリナの場合、信頼値や恐怖値だけでなく、こういう複合的な数字も出るようになっていた。
43%。
半分にも届いていない。
外に出て、人と対峙して、震えずに言葉を発する。そのためにはまだ、何かが足りない。
「レン、今日は何か持ってきた?」
「ない」
「……そう」
ページをめくる音が続く。
「レン」
「なんだ」
「昨日の続き、話してもいい?」
「どうぞ」
「南方の交易路の話なんだけど、ガルディアの商人組合が去年から動きを変えてる。表向きは価格交渉だけど、実態はドレツァを迂回する新しいルートの開発だと思う」
「根拠は」
「三年前の交易量と比べると、ドレツァを通過する商品の種類が変わってる。高価値の物が減って、かさばる安価な物だけになってる。ドレツァは政情が不安定だから、いつ混乱が起きるかわからない。高価値品を扱う商人ほどリスクを嫌って別ルートに移す。切り替えが始まってる証拠」
「……よく気づいたな」
「数字を見ればわかる。去年取り寄せた交易記録に全部出てる」
俺はその言葉を聞きながら、頭の中の数字を確認した。
イリナの成功率:43%
変わっていない。
知識は完璧だ。分析力も判断力も、間違いなく本物だ。でも、この数字は知識とは別のものを測っている。人前に立つこと。声が震えないこと。視線に耐えること。その一つ一つが、今のイリナにはまだ重い。
「レン、聞いてる?」
「聞いてる」
「……ぼーっとしてた?」
「少し考えてた」
「何を」
「お前のことを」
扉の向こうで、かすかに息を吸う音がした。
「……わたしの、何を」
「お前がどれだけ準備できているか」
少しの間があった。
「……準備って」
「外に出るための」
沈黙。今度は少し長い。
その日の夕方、トワが廊下で話しかけてきた。
「成功率の確認、始めましたか」
「毎朝やってる」
「どのくらいですか」
「43%」
トワが少し考える顔をした。「……思ったより低いですね」
「そうか? 俺は思ったより高いと思った」
「……なるほど」
「三週間前は計測すら難しかった。43%まで来たのは、信頼が積み上がった証拠だ」
「でも期限まで三ヶ月を切りました」
「わかってる」
トワが少し間を置いてから言った。「久遠さんは、何パーセントになったら動かすつもりですか」
「99%だ」
トワが目を細める。「……それは、高い基準ですね」
「下げる気はない」
「もし三ヶ月で届かなかったら」
「届かせる」
トワがしばらく俺を見た。それから、小さく笑った。
「……わかりました」
そう言って、歩いていった。
翌朝から、イリナの様子が少し変わった。
本の差し出し方が変わった。以前は読んでから感想を求めてきたが、今は読む前に差し出してくる。
「これ、読んでみて」
「何の本だ」
「外交官の手記。三十年前に大国と交渉した人の記録」
「なぜこれを」
「……参考になると思って」
その一言が引っかかった。
参考になる。誰にとっての?
「お前が読みたくて持ってきたのか」
「……レンにも、読んでほしい」
「わかった」
受け取りながら、頭の中の数字を確認した。
イリナの成功率:43%→46%
3ポイント上がっていた。
三日後。
「レン、あの手記、読んだ?」
「読んだ」
「どうだった」
「交渉の場面が具体的で参考になった。特に使者との最初の会話の作り方」
「そこ、わたしも同じこと思った」
声に、少し力が入っていた。いつもの本の話のときとは違う。
「……わたし、できると思う」
俺は少し間を置いた。
「何が」
「使者との会談。大国の使者が来たとき、わたしが対応する」
「……そうか」
「できると思う。頭の中には全部ある。どう話せばいいか、どこを突けばいいか。わかってる」
「お前の分析は正しい」
「じゃあ」
「まだ早い」
扉の向こうで、かすかに気配が動いた。
「……なんで」
「数字が足りない」
「数字って」
「成功率だ。今は43%だ」
少しの沈黙。
「……何パーセントになったら、やらせてくれるの」
「99%だ」
「……それ、いつになるの」
「わからない。でも、上げていける」
「どうやって」
「今やっていることを続ける。毎日話して、少しずつ外の空気に慣れて、人の気配に慣れていく。焦らない」
扉の向こうが静かになった。
ページをめくる音もしない。気配だけがある。
「……レン」
「なんだ」
「わたし、震えてる?」
「今は見えない。壁があるから」
「……でも、外に出たら震えるかな」
「震えると思う」
「……そっか」
声が、少し沈んだ。
「震えてても、やれるか」
「……わからない」
「震えながらやった人間の記録が、今読んでいる手記にあった。震えながら全部言い切った、と書いてあった」
扉の向こうで、しばらく何も聞こえなかった。
「……そういう人、いるんだ」
「いる」
また沈黙。今度は、少し違う質感の静けさだった。
「レン」
「なんだ」
「……まだ43%なの」
「ああ」
「……上がってる?」
「少しずつ上がってる」
「……そっか」
ページをめくる音が、ゆっくりと始まった。
頭の中に数字が浮かぶ。
イリナの成功率:46%→51%
5ポイント。
51%。まだ半分だ。でも、三日前より8ポイント上がっている。
俺は扉の灯りを見た。
三ヶ月で99%まで持っていく。
間に合わせる。




