第十五話 離れるのはダメ
「レン、その本、面白い?」
扉の隙間から、声がした。
「まあまあだ」
「どのあたりが」
「外交の章。小国が大国と交渉するときの話術の部分」
少し間があった。
「……それ、わたしが薦めた本じゃない」
「トワから借りた」
「……トワが本を読むの?」
「意外そうだな」
「だって、あの人、話し方がずっと相手を説得しようとしてる感じがするから」
「そういう人間こそ本を読む」
扉の向こうで、くすりと音がした。
あの夜から、一週間が経っていた。
イリナは「嘘をついている」と言った。その嘘の中身を、まだ話していない。
俺も聞いていない。
話すタイミングは、イリナが決めることだと思っていた。急かしても何も変わらない。それより、毎日ここに来て、普通に話して、普通にいる。それが今の俺にできる唯一のことだった。
ただ、数字は見ていた。
イリナの信頼値:14%
抱え込み度:73%
抱え込み度は少しずつ下がっている。一週間前は91%だったから、かなり動いた。でもゼロにはならない。何かがまだ、扉の向こうに残っている。
「レン」
「なんだ」
「外交の話術って、要は相手に自分が必要だと思わせることでしょ」
「そういう側面はある」
「でも本当に必要かどうかは関係ない。必要だと思い込ませることが大事で」
「そうとも言える」
「……それって、操作じゃない?」
俺は少し考えた。
「操作と交渉の境界線は曖昧だ。でも目的が相手の利益になるなら、操作とは呼ばないと思う」
「目的が相手の利益になってるかどうか、相手にわかる?」
「わからないことのほうが多い」
「……そう」
少しの間があった。
「じゃあ、わからないまま動かされてたとしたら」
「それが操作だな」
「……うん」
イリナの声が、少し低くなった。
俺は扉を見た。
「何か、思い当たることがあるのか」
返事がなかった。
でも、沈黙の中に何かがある気がした。ページをめくる音もしない。扉の向こうで、じっと何かを考えている気配だけがある。
「……もし、ずっと誰かに誘導されてたとして」
声が、少し掠れた。
「その人のことを、信頼してたとして」
「ああ」
「……それでも、腹が立つ?」
俺はしばらく考えた。
「腹が立つかどうかは、目的次第だと思う。誘導した相手がお前のためを思っていたなら、腹を立てる必要はない気がする」
「でも」
「でも?」
「……知らなかった、という事実は残る」
「そうだな」
「知らないまま動かされてたのと、知った上で動くのは、全然違う」
「違う」と俺は答えた。「ただ、どちらも間違いじゃないこともある」
扉の向こうで、かすかに息を吸う音がした。
「……難しい」
「難しい話だ」
「レンは、誰かに誘導されたら怒る?」
「内容による」
「もし、レンのためを思ってたとしても?」
「それでも、知りたいとは思う。結果がよくても、過程を知る権利はある」
長い沈黙が続いた。
頭の中に数字が浮かぶ。
イリナの抱え込み度:73%→68%
少し下がった。
声に出すことで、少しずつ整理されているのかもしれない。
「……レン」
「なんだ」
「わたし、まだ話せない。でも、いつか話す」
「わかった」
「……怒らない?」
「何を」
「話すのが遅くて」
「怒らない」
「……本当に?」
「本当に」
また沈黙。今度は、少し柔らかい質感の沈黙だった。
「……変な人」
「よく言われる」
「また言いたかった」
くす、という音がした。
さっきまでの重さが、少しだけ薄れた気がした。
その日の夕方、廊下でトワと鉢合わせた。
「殿下の様子はどうですか」とトワが聞く。
「少し落ち着いてきた。でもまだ抱えてる」
「焦らないほうがいいですよ。殿下が自分で話す気になるまで」
「わかってる」
トワが少し歩調を落とした。
「久遠さん」
「なんだ」
「一つ、正直に聞いていいですか」
「どうぞ」
「殿下のことを、どう思っていますか」
俺は少し間を置いた。
「補佐する相手だ」
「補佐する相手以上の何かが、もうありますか」
「今のところは」
トワが小さく笑った。営業スマイルとは少し違う、もっと静かな笑い方だった。
「……そうですか」とだけ言って、先に歩いていく。
その背中を見ながら、俺はしばらく廊下に立っていた。
今のところは、と言った。
自分でも、その言葉の続きがどこへ向かうのか、まだわからなかった。
翌朝。
「おはよう」
「……おはよう」
扉の隙間から灯りが漏れている。ページをめくる音はまだしない。
「今日は何を読んでいる」
「……読んでない。考えてた」
「何を」
長い沈黙。
「……レンのこと」
俺は扉を見た。
「俺の何を」
「ここにいてくれる理由」
「仕事だ」
「……仕事だから、来てるの」
「最初はそうだった」
「今は」
俺は少し考えた。
「今も仕事だ。でも、仕事だけじゃない気もする」
扉の向こうで、かすかに息を吸う音がした。
「……どういう意味」
「よくわからない。まだ整理できていない」
また沈黙。
頭の中に数字が浮かぶ。
イリナの信頼値:14%→19%
5ポイント。
「レン」
「なんだ」
「わたし、レンのことが……」
言葉が途切れた。
しばらく、何も聞こえなかった。扉の向こうに気配はある。ただ、静かだ。
「……ずっと考えてたんだけど」
「ああ」
「うまく言えない。でも……」
また少しの間。
「……レンがいなくなったら、どうなるんだろうって」
「いなくなる予定はない」
「でも、いつかは」
「そのいつかが来たとき、考える」
「……それ、今じゃなくていいの?」
「今考えても答えは出ない。今は今のことをやる」
扉の向こうが、静かになった。
長い沈黙だった。俺は壁にもたれたまま、特に動かなかった。廊下の窓から朝の光が差し込んでいる。石畳の上に長い影が伸びている。
「レン」
「なんだ」
「……離れるのはダメ」
声が、扉の奥から聞こえた。
命令でも、お願いでもない。もっと素直な、何かだった。
「わかった」
俺は短く答えた。
ページをめくる音が、ゆっくりと始まった。
頭の中に数字が浮かぶ。
イリナの依存値:37%→44%
上がっている。
でも今は、それでいいと思った。
依存が先に来て、信頼が後からついてくることもある。
順番が逆でも、方向が同じなら問題ない。
そう、思っていた。




