第十三話 存在しない存在
「レン、この本、知ってる?」
扉の隙間から差し出された本は、今まで渡されたものとは少し違った。
革表紙が古い。表題が掠れていて、読みにくい。受け取って多言語解釈で読むと、古代語で『境界なき者の記録』とある。
「知らない。どこで見つけた」
「書庫の目録を調べていたら出てきた。誰も貸し出し記録のない本だった。取り寄せてみたら……」
「何が書いてある」
少し間があった。
「……読んでから教える」
扉の隙間が、静かに閉まった。
その日から、イリナの様子が少し変わった。
本を差し出してこない。
本の話をしなくなった。
扉の隙間から声はかけてくる。でも、内容が変わった。
「昨日、城下で火事があったって聞いた」
「小さい火事だ。すぐ消えた」
「……そう」
「外の話を聞きたいか」
「……うん」
政治の話も、戦術の話も、魔法の話も、出てこない。
三日目の朝、扉の前に座ると、いつもより長い沈黙があった。
「おはよう」
「……おはよう」
「今日は本を持ってきていないのか」
「……持ってない」
「昨日の本は読み終わったか」
短い沈黙。
「読んだ」
「内容を教えてくれると言っていたが」
また沈黙。今度は少し長い。
「……まだいい」
俺はそれ以上聞かなかった。
聞いても話さないことは、数字を見ればわかる。
頭の中に数字が浮かぶ。
イリナの信頼値:9%
抱え込み度:88%
抱え込み度、という項目が出たのは初めてだった。
確率可視化は、意識を向けた相手の状態を数字にする。今まで出なかった項目が出るということは、今のイリナにとってそれが一番支配的な状態だということだろう。
88%。
かなり重い。
「……レン」
「なんだ」
「神託の暴走って、前例はあるの」
俺は少し考えた。
「トワは前例がないと言っていた」
「……そう」
「何か調べているのか」
「……別に」
別に、という割に、声が少しだけ硬い。
「その本に、何か書いてあったのか」
「……関係ない」
関係ない、という言い方は初めてだった。今まで話題を打ち切るときは黙るか、別の話をするかだった。
頭の中に数字が動く。
イリナの抱え込み度:88%→91%
上がった。
俺は扉を見た。
隙間から漏れる灯りが、揺れている。
急かすべきではない。
でも、一人で抱えさせすぎるのも違う気がした。
「その本、もう一度貸してくれるか」
「……なんで」
「俺も読みたい」
しばらく沈黙が続いた。
それから、扉の隙間が少し開いて、本が差し出された。
受け取ると、すぐに隙間が閉まった。
「……読んだら、返して」
「わかった」
「読んでも、何も言わなくていい」
俺はその言葉を聞いた。
何も言わなくていい。
つまり、内容を知られることは構わないということだ。ただ、話したくない。
「わかった」
ページをめくる音が、また始まった。
でも、今日の音はいつもより静かだった。
部屋に戻って、本を読んだ。
古代語で書かれた記録は、多言語解釈のおかげで問題なく読める。
内容は短かった。
百年以上前の記録らしい。異世界を行き来したことで「どこにも属さない存在」になった者の話が、淡々と書かれていた。
その者は、存在することに耐えられなくなったと書いてある。
世界の法則の外側にいる、ということの意味を理解したとき、その者は自ら命を絶とうとした。何度試みても死ねなかった、とある。体が再生したからだ。
俺は少し手を止めた。
……超越身体再生。
再生したから死ねなかった、という記述を、静かに読んだ。
その者は最終的に、現世に戻ることを選んだ。現世に戻ればチートが消えて、寿命が生まれる。普通の人間に戻れる。そして死ねる。
その者は現世に戻り、数年後に普通の人間として天寿を全うした、と記録には書いてある。
俺はしばらく、本を閉じたまま天井を見ていた。
イリナがこれを読んだ。
この記録の意味を、イリナは理解した。
現世に戻れば、俺は死ねる。普通の人間に戻れる。
でも、そこで止まる話じゃないだろう、とも思った。
イリナは頭がいい。この記録一冊で止まらず、周辺の意味まで全部考え抜いているはずだ。俺がここにいる理由。俺が現世に戻る選択肢を持っていること。神託の暴走が何を意味するのか。そして、自分がレンをここに引き留めていることへの、何か。
抱え込み度91%。
あの数字が、今は少し違う意味を持って見えた。
松明の光が、石の天井に影を作っている。
俺は特に何も感じなかった。
いや、正確には、感じ方がわからなかった。現世に戻る選択肢があることは、トワから聞いた話でなんとなくは知っていた。でも、こうして文字で見ると、少し違う重さがあった。
……まあ、今すぐ考えることでもない。
本を閉じて、横に置いた。
明日、扉の前に座れば、イリナはいつも通り声をかけてくる。
たぶん、いつも通りの話をする。でもその声の奥に、今日から何かが増えた気がした。
翌朝。
「おはよう」
「……おはよう」
「本は読んだ」
短い沈黙。
「……そう」
「返す」
扉の隙間に本を差し入れた。すっ、と受け取られる。
また沈黙。
「レン」
「なんだ」
「……今日も来る?」
いつもと同じ問いだった。でも、声の質が少し違う。もっと、奥のほうから出てきているような。
「来る」
「……そう」
ページをめくる音が始まった。
今日の音は、昨日より少し、柔らかかった。




