第十話 本の話
「この本、読んだことある?」
扉の隙間から、本が差し出された。
分厚い。革表紙に金の文字。タイトルを読む。『大陸魔法体系論・第三版』。
「ない」
「じゃあ読んで」
「今すぐか」
「今すぐじゃなくていい。読んだら感想を言って」
本を受け取った。ずっしりと重い。ざっと見ると五百頁はある。
「……いつまでに」
「三日」
「速いな」
「長くない。わたしは一日で読んだ」
それはそうだろう、とは言わなかった。
翌々日、本を読み終えて扉の前に座った。
「読んだ」
隙間から気配が動く。
「どうだった」
「第四章が一番読みやすかった。第七章は途中から頭に入らなくなった」
「どのあたりで」
「術式の分類が多すぎて、基準がよくわからなくなった」
扉の向こうで、かちりと何かが動く音がした。
「……それは正しい感想。あの章、構造が古いから」
「古いというのは」
「分類の基準が属性ベースになっている。でも実際の術式は属性より構造で分けたほうが応用が利く。著者も後で気づいて論文を書き直してる」
扉の隙間が、少しだけ広がった。
それから、毎日本の話をするようになった。
イリナが本を差し出す。俺が読む。感想を言う。イリナが補足する。補足が本題より長くなることが多かった。
魔法の話。戦術の話。政治の話。
「ガルディア《がるでぃあ》の属国化圧力、第三章に似たケースが出てくる。百年前のルーネス《るーねす》条約と同じ構造」
「どう対処した」
「経済的な相互依存を作り上げて、属国化すると損をする状況にした。軍事で勝てないなら経済で縛る」
「今のドレツァに同じことができるか」
「……難しい。でも、完全に不可能ではない」
扉越しで、顔は見えない。でも声だけで、イリナが考えながら話しているのがわかった。
「ガルディアの南方との交易路、今は迂回している。ドレツァを通れば三割短縮できる。交易路の利権を持てば交渉の余地が生まれる」
「具体的だな」
「地図を見ればわかる」
「お前、実際にドレツァの地図を見たことがあるのか」
「城の書庫から全部取り寄せた。十二年分」
十二年。
六歳か七歳の頃から、部屋の中で地図を読み続けていたということだ。
俺はしばらく黙った。
「……お前、全部わかってるだろ」
「何が」
「国の状況。対処法。何をすればいいか。全部」
扉の向こうで、イリナが黙った。
「わかってる、というか……」
少し間があった。
「頭の中にはある。全部」
「なのに動けない」
「……うん」
一言だけ。小さく。
俺は扉を見た。
隙間から漏れる灯りが、かすかに揺れている。
「それは、お前のせいじゃない」
「……そんなこと言う人、初めて」
「本当のことだから」
また沈黙。今度は少し長い。
それから、扉の向こうから音がした。
くす、という小さな音だった。
「……なに、それ」
「なにが」
「『本当のことだから』って。なんか、変な言い方」
「そうか」
「うん。でも……」
少し間があった。
「……悪くない」
頭の中に数字が浮かんだ。
イリナの信頼値:3%→9%
6ポイント。
俺はそれを確認して、また扉の灯りを見た。
くす、という音がまだ耳に残っていた。
初めて聞いた音だった。




