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引きこもり天才姫は俺にしか懐かない〜存在しない者が、一人の姫の一生を見届ける〜  作者: アルコール吸引マシン5号
序章 扉が開くまで

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第十話 本の話

「この本、読んだことある?」


扉の隙間から、本が差し出された。


分厚い。革表紙に金の文字。タイトルを読む。『大陸魔法体系論・第三版』。


「ない」


「じゃあ読んで」


「今すぐか」


「今すぐじゃなくていい。読んだら感想を言って」


本を受け取った。ずっしりと重い。ざっと見ると五百頁はある。


「……いつまでに」


「三日」


「速いな」


「長くない。わたしは一日で読んだ」


それはそうだろう、とは言わなかった。



翌々日、本を読み終えて扉の前に座った。


「読んだ」


隙間から気配が動く。


「どうだった」


「第四章が一番読みやすかった。第七章は途中から頭に入らなくなった」


「どのあたりで」


「術式の分類が多すぎて、基準がよくわからなくなった」


扉の向こうで、かちりと何かが動く音がした。


「……それは正しい感想。あの章、構造が古いから」


「古いというのは」


「分類の基準が属性ベースになっている。でも実際の術式は属性より構造で分けたほうが応用が利く。著者も後で気づいて論文を書き直してる」


扉の隙間が、少しだけ広がった。



それから、毎日本の話をするようになった。


イリナが本を差し出す。俺が読む。感想を言う。イリナが補足する。補足が本題より長くなることが多かった。


魔法の話。戦術の話。政治の話。


「ガルディア《がるでぃあ》の属国化圧力、第三章に似たケースが出てくる。百年前のルーネス《るーねす》条約と同じ構造」


「どう対処した」


「経済的な相互依存を作り上げて、属国化すると損をする状況にした。軍事で勝てないなら経済で縛る」


「今のドレツァに同じことができるか」


「……難しい。でも、完全に不可能ではない」


扉越しで、顔は見えない。でも声だけで、イリナが考えながら話しているのがわかった。


「ガルディアの南方との交易路、今は迂回している。ドレツァを通れば三割短縮できる。交易路の利権を持てば交渉の余地が生まれる」


「具体的だな」


「地図を見ればわかる」


「お前、実際にドレツァの地図を見たことがあるのか」


「城の書庫から全部取り寄せた。十二年分」


十二年。

六歳か七歳の頃から、部屋の中で地図を読み続けていたということだ。


俺はしばらく黙った。


「……お前、全部わかってるだろ」


「何が」


「国の状況。対処法。何をすればいいか。全部」


扉の向こうで、イリナが黙った。


「わかってる、というか……」


少し間があった。


「頭の中にはある。全部」


「なのに動けない」


「……うん」


一言だけ。小さく。


俺は扉を見た。

隙間から漏れる灯りが、かすかに揺れている。


「それは、お前のせいじゃない」


「……そんなこと言う人、初めて」


「本当のことだから」


また沈黙。今度は少し長い。


それから、扉の向こうから音がした。


くす、という小さな音だった。


「……なに、それ」


「なにが」


「『本当のことだから』って。なんか、変な言い方」


「そうか」


「うん。でも……」


少し間があった。


「……悪くない」


頭の中に数字が浮かんだ。


イリナの信頼値:3%→9%


6ポイント。


俺はそれを確認して、また扉の灯りを見た。

くす、という音がまだ耳に残っていた。


初めて聞いた音だった。

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