第一話 死ぬか、来るかだ
「久遠くん、君に頼みたいことがある」
その言葉を聞いた夜から、俺の人生はおかしくなり始めた。
政治家の私設秘書というのは、表向きには地味な仕事だ。
スケジュール管理、書類整理、来客対応。やることは多いが、どれも派手ではない。
でも裏側は違う。
先生――国会議員の橘孝司は、俺が思っていたよりずっと多くの「別の顔」を持っていた。
入って三ヶ月で気づいた。半年で確信した。一年で、見て見ぬふりをすることに疲れた。
補助金の横流し。陳情という名の賄賂。対立候補への圧力工作。
全部知っていた。全部、黙っていた。
先生のほうが先に動いた。
「久遠くんが勝手にやったことなんだよ」
橘先生は穏やかに、そう言った。
薄暗い会議室。秘書仲間が四人。俺だけが立たされている。
「補助金の件も、陳情費の件も、彼が独断でやったことだ。私は知らなかった。そうだよね、みんな」
四人が一斉に頷く。
一人だけ俺と目が合い、すぐに視線を逸らした。
「……先生」
「記者会見は明後日だ。君の弁護士費用くらいは出してあげよう。でもね、久遠くん。君には家族もいない。後ろ盾もない。戦っても、君が損をするだけだよ」
にこりと笑う。
俺を追い詰めているのに、その顔に迷いは一切ない。
大学で心理学を学んだ。人の嘘を読む訓練もそれなりにしてきた。
でも、これほど澄んだ笑顔で人を売れる人間を、俺はまだ見たことがなかった。
夜の街に出たのはそれから二時間後だ。
荷物をまとめる気にもなれなかった。財布と鍵だけ持って、マンションを出た。
行き先なんてない。ただ歩いた。
十一月の夜風が冷たく、コートを持ってこなかったことを少しだけ後悔する。少し、だけ。
それ以外のことはもう、どうでもよかった。
施設を出てから十年。
ひとりで稼いで、ひとりで学んで、ひとりで就職した。
家族という概念が最初からなかった俺には、失うものなんてないはずだった。
それなのに、なぜか足が重い。
路地裏のベンチに座る。コンビニの明かりだけが遠くに見える。
財布の中には六千円と少し。カードはある。でも口座の残高は来月の家賃が出たら底をつく。
俺を拾ってくれた人間に、俺は捨てられた。
珍しくもない話だ。
なのに頭が、うまく動かない。
「いやー、やっと見つけましたよ」
声が降ってきた。
振り向くと、女が立っていた。
小柄で童顔。二十代前半に見えるが、何かが微妙にちぐはぐだ。着ている服はシンプルなのに、佇まいだけが妙に落ち着いている。年齢不詳の猫みたいな雰囲気。
「……誰だ」
「トワと申します。えー、正式な所属は彼岸院という組織なんですが、まあそこはおいおい」
彼岸院。聞いたことのない名前だ。
「久遠蓮さん、ですよね。二十八歳、心理学専攻、現在無職。昨日まで橘孝司議員の私設秘書。ご実家は林の中――というか、お持ちではない」
「……何が目的だ」
「採用のご提案です」
トワは屈託なく笑う。
さっきまでの橘先生の笑顔と、表面上は似ているかもしれない。でも何かが違う。どこが違うのかは、うまく言えない。
「今すぐ採用? 深夜に路地裏で?」
「ご縁というのはタイミングですから。あ、立ち話もなんですし、座ってもいいですか」
返事を待たずにトワは隣に腰を下ろす。馴れ馴れしさが骨の髄まで染みているタイプだ。
「単刀直入に聞く。どういう組織だ」
「ざっくり言うと、異世界への転職支援です」
「……は」
「正確には、死の寸前にいる方を別の世界にお送りする組織です。死んだことにして、ですね。元の世界での戸籍はそのまま死亡扱いになります。後腐れのない方だけをお連れしています」
「俺が死にそうに見えたか」
「人生が詰んだ方、というほうが正確ですかね」
否定できなかった。
「で、仕事の内容は」
「ドレツァ王国という国に行っていただきます。弱小国でして。国の切り札になりうる人物がいるんですが、その方が……まあ、引きこもりでして」
「引きこもり」
「非常に優秀な方なんです。ただ実践が一切できない。その補佐をしていただければ。詳しくは現地で説明します」
俺はしばらく黙ってベンチの木目を見ていた。
荒唐無稽な話だ。普通なら笑って立ち上がるところだ。
でも「普通」を選ぶ理由が、今の俺にはどこにもない。
「条件は」
「一つだけ。元の世界には基本的に戻れません」
「基本的に、というのは」
「戻る方法がないわけじゃないんですが、長くなるのでそれも現地で」
「……能力みたいなものは必要か」
「久遠さんには、現地で開花するものがあります。詳細は神託を受けてのお楽しみで」
「神託」
「向こうの世界特有のシステムです。チートと呼んでいただいても構いません」
コンビニの自動ドアが開く音がした。
客が出てきて、俺たちの横を通り過ぎていく。普通の夜だ。俺が今、異世界転職の話をされていること以外は。
「断る理由は」
「死ぬか、来るかだ、というところですかね」
トワが初めて、軽い口調じゃない声で言った。
「元の世界で戦っても、久遠さんには勝ち目がない。証拠はあっても、盾になってくれる人間がいない。あの政治家はそれを知ってやっています。橘先生の笑顔、きれいでしたよね」
「……見てたのか」
「少し前から追いかけていましたので」
俺はトワを見た。童顔で小柄で、どこかちぐはぐな女。
何百年分かの何かを、この人はどこかに仕舞っている気がした。うまく説明できないが、そういう感覚があった。
「一つだけ聞く」
「どうぞ」
「お前は、信用できるか」
トワはまた笑う。今度は少しだけ、違う笑い方で。
「さあ、どうでしょう。でも久遠さんに、ほかの選択肢はあります?」
答えはなかった。
六千円と、底をつく口座と、後ろ盾のない名前だけが、今の俺のすべてだ。
ベンチから立ち上がる。
コートを持ってこなかったことは、もう後悔していない。どうせ要らなくなるから。
「行く条件をもう一つ追加する」
「なんでしょう」
「騙されたと気づいたら、容赦しない」
「もちろんです」とトワは言う。「その気概がないと、向こうでは生き残れませんので」
夜風が吹いた。
ベンチの背に引っかけていたジャケットがひらりと揺れる。
俺は財布だけを手に取り、トワの隣に並んだ。
「いやー、本当に来てくれてよかった」
トワがほっとしたように言う。営業スマイルの奥に、何か別のものが一瞬だけ滲んだ気がした。
「探しましたよ、久遠さん。思ったより時間がかかってしまって」
「……どのくらい探してた」
「長いですよ。それはもう」
それ以上は言わなかった。
俺も聞かなかった。
今は、それでよかった。




