表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
引きこもり天才姫は俺にしか懐かない〜存在しない者が、一人の姫の一生を見届ける〜  作者: アルコール吸引マシン5号
序章 扉が開くまで

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

1/35

第一話 死ぬか、来るかだ

久遠くおんくん、君に頼みたいことがある」


その言葉を聞いた夜から、俺の人生はおかしくなり始めた。



政治家の私設秘書というのは、表向きには地味な仕事だ。

スケジュール管理、書類整理、来客対応。やることは多いが、どれも派手ではない。


でも裏側は違う。


先生――国会議員のたちばな孝司こうじは、俺が思っていたよりずっと多くの「別の顔」を持っていた。

入って三ヶ月で気づいた。半年で確信した。一年で、見て見ぬふりをすることに疲れた。


補助金の横流し。陳情という名の賄賂。対立候補への圧力工作。

全部知っていた。全部、黙っていた。


先生のほうが先に動いた。



「久遠くんが勝手にやったことなんだよ」


橘先生は穏やかに、そう言った。

薄暗い会議室。秘書仲間が四人。俺だけが立たされている。


「補助金の件も、陳情費の件も、彼が独断でやったことだ。私は知らなかった。そうだよね、みんな」


四人が一斉に頷く。

一人だけ俺と目が合い、すぐに視線を逸らした。


「……先生」


「記者会見は明後日だ。君の弁護士費用くらいは出してあげよう。でもね、久遠くん。君には家族もいない。後ろ盾もない。戦っても、君が損をするだけだよ」


にこりと笑う。

俺を追い詰めているのに、その顔に迷いは一切ない。


大学で心理学を学んだ。人の嘘を読む訓練もそれなりにしてきた。

でも、これほど澄んだ笑顔で人を売れる人間を、俺はまだ見たことがなかった。



夜の街に出たのはそれから二時間後だ。


荷物をまとめる気にもなれなかった。財布と鍵だけ持って、マンションを出た。

行き先なんてない。ただ歩いた。


十一月の夜風が冷たく、コートを持ってこなかったことを少しだけ後悔する。少し、だけ。

それ以外のことはもう、どうでもよかった。


施設を出てから十年。

ひとりで稼いで、ひとりで学んで、ひとりで就職した。

家族という概念が最初からなかった俺には、失うものなんてないはずだった。


それなのに、なぜか足が重い。


路地裏のベンチに座る。コンビニの明かりだけが遠くに見える。

財布の中には六千円と少し。カードはある。でも口座の残高は来月の家賃が出たら底をつく。


俺を拾ってくれた人間に、俺は捨てられた。


珍しくもない話だ。

なのに頭が、うまく動かない。



「いやー、やっと見つけましたよ」


声が降ってきた。


振り向くと、女が立っていた。

小柄で童顔。二十代前半に見えるが、何かが微妙にちぐはぐだ。着ている服はシンプルなのに、佇まいだけが妙に落ち着いている。年齢不詳の猫みたいな雰囲気。


「……誰だ」


「トワと申します。えー、正式な所属は彼岸院ひがんいんという組織なんですが、まあそこはおいおい」


彼岸院。聞いたことのない名前だ。


久遠蓮くおんれんさん、ですよね。二十八歳、心理学専攻、現在無職。昨日まで橘孝司議員の私設秘書。ご実家は林の中――というか、お持ちではない」


「……何が目的だ」


「採用のご提案です」


トワは屈託なく笑う。

さっきまでの橘先生の笑顔と、表面上は似ているかもしれない。でも何かが違う。どこが違うのかは、うまく言えない。


「今すぐ採用? 深夜に路地裏で?」


「ご縁というのはタイミングですから。あ、立ち話もなんですし、座ってもいいですか」


返事を待たずにトワは隣に腰を下ろす。馴れ馴れしさが骨の髄まで染みているタイプだ。


「単刀直入に聞く。どういう組織だ」


「ざっくり言うと、異世界への転職支援です」


「……は」


「正確には、死の寸前にいる方を別の世界にお送りする組織です。死んだことにして、ですね。元の世界での戸籍はそのまま死亡扱いになります。後腐れのない方だけをお連れしています」


「俺が死にそうに見えたか」


「人生が詰んだ方、というほうが正確ですかね」


否定できなかった。


「で、仕事の内容は」


「ドレツァ王国という国に行っていただきます。弱小国でして。国の切り札になりうる人物がいるんですが、その方が……まあ、引きこもりでして」


「引きこもり」


「非常に優秀な方なんです。ただ実践が一切できない。その補佐をしていただければ。詳しくは現地で説明します」


俺はしばらく黙ってベンチの木目を見ていた。


荒唐無稽な話だ。普通なら笑って立ち上がるところだ。

でも「普通」を選ぶ理由が、今の俺にはどこにもない。


「条件は」


「一つだけ。元の世界には基本的に戻れません」


「基本的に、というのは」


「戻る方法がないわけじゃないんですが、長くなるのでそれも現地で」


「……能力みたいなものは必要か」


「久遠さんには、現地で開花するものがあります。詳細は神託を受けてのお楽しみで」


「神託」


「向こうの世界特有のシステムです。チートと呼んでいただいても構いません」


コンビニの自動ドアが開く音がした。

客が出てきて、俺たちの横を通り過ぎていく。普通の夜だ。俺が今、異世界転職の話をされていること以外は。


「断る理由は」


「死ぬか、来るかだ、というところですかね」


トワが初めて、軽い口調じゃない声で言った。


「元の世界で戦っても、久遠さんには勝ち目がない。証拠はあっても、盾になってくれる人間がいない。あの政治家はそれを知ってやっています。橘先生の笑顔、きれいでしたよね」


「……見てたのか」


「少し前から追いかけていましたので」


俺はトワを見た。童顔で小柄で、どこかちぐはぐな女。

何百年分かの何かを、この人はどこかに仕舞っている気がした。うまく説明できないが、そういう感覚があった。


「一つだけ聞く」


「どうぞ」


「お前は、信用できるか」


トワはまた笑う。今度は少しだけ、違う笑い方で。


「さあ、どうでしょう。でも久遠さんに、ほかの選択肢はあります?」


答えはなかった。

六千円と、底をつく口座と、後ろ盾のない名前だけが、今の俺のすべてだ。


ベンチから立ち上がる。

コートを持ってこなかったことは、もう後悔していない。どうせ要らなくなるから。


「行く条件をもう一つ追加する」


「なんでしょう」


「騙されたと気づいたら、容赦しない」


「もちろんです」とトワは言う。「その気概がないと、向こうでは生き残れませんので」


夜風が吹いた。

ベンチの背に引っかけていたジャケットがひらりと揺れる。


俺は財布だけを手に取り、トワの隣に並んだ。



「いやー、本当に来てくれてよかった」


トワがほっとしたように言う。営業スマイルの奥に、何か別のものが一瞬だけ滲んだ気がした。


「探しましたよ、久遠さん。思ったより時間がかかってしまって」


「……どのくらい探してた」


「長いですよ。それはもう」


それ以上は言わなかった。


俺も聞かなかった。

今は、それでよかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ