第9話 風の彼方に
饐えた血の匂いと、鼻をつく焼け焦げた臭いが入り交じり、静まり返った空間に濃く立ち込めていた。
その中に堂々とした佇まいで立つガレリードは、目を細め、静かに問いかけた。
「……ずっと見ていたのか。……となれば、俺たちは貴様の掌の上だった……ということか」
責めた口調ではない。
むしろ、少しの驚きと、確かな納得がにじんでいた。
それに対し、クィムサリアは肩をすくめるようにして答える。
「それは秘密……ということにしておくわ」
それは激しい一騎打ちが交わされたばかりの場に似合わぬ、気の抜けた口調だった。
ガレリードは、地に伏すティガスへと視線を落とす。
まるで、彼が何者なのかを改めて見定めようとするように。
「そして、その若者が貴様の騎士……というわけか。荒削りだがいい剣士だ」
「別に……そういうわけじゃないわ。貴方とは違う。……この子にはこの子の人生があるから」
クィムサリアの声は穏やかだった。
それをガレリードがどう受け取ったかはわからない。
「……そうか。まあいい。いずれにせよ、最後まで戦わせてくれたことには感謝する。――お前たち、もうここに用はない。退却だ」
彼は優雅な所作で剣を鞘に納めると、歩幅を崩さず自軍へと背を向けた。
その背中には、ある種の満足感にも似た空気が漂っていた。
クィムサリアはその姿を一瞥し、すぐに視線を切る。
「――サリュサ、人が来たら教えて」
「はーい。承知しています」
軽快に返しながらも、サリュサは真剣な眼差しで周囲に意識を向ける。
その間、クィムサリアはゆっくりと腰を落とし、地面に倒れているティガスを仰向けに寝かせた。
一瞬、彼女の表情が曇る。
裂けた革鎧の下には血で真っ赤に染まった下衣が肌に張り付いていて、斬撃の深さが見て取れた。
しかし、手で捲ってみれば、肉体そのものの傷――深く刻まれたはずの致命傷は、既に跡形もなく閉じていた。
「……あなた……は……?」
虚ろな目でこちらを見上げるティガスが、途切れそうな声で問いかける。
視線は定まらず、半ば夢の中で語りかけているような儚さで。
クィムサリアは小さな安堵と共に、一瞬だけ言葉に迷ったあと、柔らかな微笑みを落とした。
「……たまたま通りがかった魔導士よ」
それを耳にしたティガスはふっと息を緩めた。
「ありがとう……ございます……」
「あまり……話さない方がいいわ。傷はもう塞がっているけど、失った血が多すぎる。今は……心配しないで、ゆっくりと寝ていなさい」
「わかりまし……た……」
クィムサリアの声に従うように、ティガスのまぶたが静かに降りる。
彼の息遣いも徐々に落ち着き、呼吸が安定していくのを、クィムサリアはじっと見つめていた。
「……にしても、こんなに早く約束を破るなんて、バカね。ちょっとは自分も大切にしなさいよね。妹さんが悲しむでしょう……?」
誰にも聞こえぬほど小さく呟いた。
しかし、その響きには小さな子供に言い聞かせるような、そういった優しさがあった。
そのとき、サリュサがひとつ頷く。
「リア様、砦から援軍ぽいのがこっちに向かってきてます。そろそろ……」
「そっか。……それじゃ」
クィムサリアは最後にそう告げながら、確信する。
きっと、それほど遠くないうちに……また会うことになると。
それは自分が生きてきたこれまでの時間からすれば、瞬きくらいの時間に過ぎないだろう。
それでも――ほんの少しの名残惜しさに躊躇しながら、クィムサリアは小声で詠唱する。
「――風の彼方へと……」
その瞬間――
風に吹かれる花びらのように、クィムサリアとサリュサの姿がふっと揺れ、光の粒となってその場から掻き消える。
一陣の風が吹き抜けたあと――そこに残されたのは、静まり返った戦場と、倒れ伏したひとりの少年だけだった。
◆◆◆
柔らかな木漏れ日が差し込んだベッドの上で、ティガスはゆっくりと目を覚ました。
まだ意識ははっきりとしない。
(俺は……いったい……?)
霧の中に沈むように、ぼんやりと思考が浮かんでは消える。
(なんだろう……? 確か、以前にもこんなことがあったような……)
こうして見知らぬ部屋で目を覚ましたことがあったような、そんな感覚に捕われる。
しかし、考えてみても、それがいつどこでのことだったか覚えていなかった。
身体を起こそうと、腕に力を入れる。
「くっ……!」
だが、全く力が入らない。
動かせないわけではないのだが、出せる力は自らの身体を持ち上げるには足りなさすぎた。
ティガスは諦めて、大きく息を吐く。
(そういえば……)
だんだんと記憶がよみがえってくる。
配属されたばかりの砦で、隣国バナサミクからの侵略に遭い、戦いが始まったこと。
劣勢のなか、敵将――ガレリードとの闘い。
――ドクン。
一瞬心臓が大きく跳ねる。
戦いのことは、ただただ必死だったことしか覚えていなかった。
だが、相手の剣をこの身に受けた瞬間の光景だけは、目に焼き付くような鮮明さで目に浮かんだ。
そして――
「……あの魔導士は……」
最後に見た光景。
明らかに自分より若い――少女にしか見えない――魔導士の姿だった。
(――彼女が、俺を助けてくれたのか……?)
そうとしか思えなかった。
しかし、年齢と共に経験が増し力を付けることが多い魔導士は、剣士と異なり熟年の者が多い。
にもかかわらず、あの若さだ。
それによく考えれば、兵士でもないのに、戦の真っ只中に通りがかることなど、普通はあり得ない。
とはいえ、考えてみても答えなど見つかるはずもない。
なにか――彼女なりの『理由』があったのだろうと思うことにした。
「また……会えるだろうか……?」
目を閉じる前――最後に見た彼女の柔らかな微笑みを思い浮かべる。
母の顔を知らない自分には想像でしかなかったが、母親が子供を寝かしつけているような、そんな優しさだったように感じた。
ただ、なぜだか――
それと同居して、涙を堪えた少女のようにも見えたような……そんな気がした。
……もう一度だけでも会えたなら。
今度こそ、ちゃんと名前を聞いて、ありがとうを伝えたい。
そんな願いを胸に抱きながら、ティガスは再び静かに目を閉じた。




