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第5話 名もなき記憶

 クィムサリアの魔法が発動し、ティガスの目にはセファーヌの全身がうっすらと光を帯びたように感じられた。


 そして、その光が消えていくとともに、セファーヌの呼吸がだんだんと整っていく。

 肩の上下が穏やかになり、青白かった顔にも、かすかに血の気が戻ってきた。

 苦しげな息もまだ完全には収まっていないものの、つい先ほどまで命の危機を感じさせていた気配は、明らかに和らいでいた。


 ティガスは、妹の手を握ったまま小さく呟いた。


「……よかった……」


 その言葉と同時に、張り詰めていた全身の力が抜け、床にぺたんと座り込んだ。

 眠っているのだろうか。

 妹からの返答はないが、安心してその寝顔を見ていられるほど、ティガスは安堵感に包まれていた。


「たぶん、もう大丈夫。ただ、この子の精神にはちょっと負担になったかもしれないから、今はゆっくりと寝かせてあげて」


 そう言ったクィムサリアの声も、今はどこか柔らかく感じられた。

 ベッドの横でしゃがんでいたティガスは、ゆっくりと立ち上がると、魔女へ向き直る。


「精神に……?」


「そう。……さっきの魔法は、それこそ『呪い』に近いもの。……魔力に反応する呪いなら……それを抑える、別の呪いをかけるしかなかったの」


「それは……」


 理解しようと努めるティガスに、クィムサリアは説明を続ける。


「だから、せっかく魔導士の素質があるのに、妹さんは二度と魔法が使えない。……ごめんなさい」


 申し訳なさそうに彼女は言うものの、ティガスにとってそれは些細なことに思えた。

 なぜなら、将来魔導士になれるかもしれないという可能性と、命を天秤にかけることなど到底できるはずがない。


「そんなこと、謝っていただく必要なんてありません! 俺にとって、セファーヌが元気で生きていてくれさえすればいいんです。……本当に、ありがとうございました。これ以上、なんて言ったらいいか……」


 お礼の言葉を口にすると同時に、ティガスの目にうっすらと涙が浮かぶ。

 ようやく、妹の命が助かったという実感が、話をしていくにつれ湧いてきた。


「礼なんて要らないわ。……ただの暇つぶしだもの」


 クィムサリアはそっけなく返したが、その目はティガスから逸らされたままだった。

 自分でも、どう答えたらいいのかわからなかったのかもしれない。


 そんな彼女に返す言葉を探していて、ふとティガスは先ほどのことを思い出した。


「……あの、その目……」


 ふとティガスが言いかけると、クィムサリアはほんの少し眉を顰めつつ、前髪をささっと指で整え片目を完全に隠してしまった。

 詮索されたくないとばかりの仕草に、ティガスは言葉の選択を誤ったことに気付く。

 しかし、クィムサリアは怒るわけでもなく、小さな声で呟いた。


「あまり……見せたくないの。……生まれつき、見えるものが少し変わってるだけよ」


「……そうなんですね」


 それ以上は聞かない方がいい。

 ティガスは本能的にそう感じて、それ以上は踏み込まなかった。


 しばしの間、その場を沈黙が支配する。

 その沈黙を破ったのはクィムサリアだった。


「ティガスさん。……約束のことだけど」


 クィムサリアの声が、ほんの少しだけ低くなる。


「……はい」


「あなたの記憶を、消さなきゃいけないの。セファーヌさんのも、ね」


「……やっぱり、そうですよね」


 ティガスは視線を落とした。

 セファーヌの命との引き換えであれば、安すぎる代償だとは思う。


 しかし、覚悟していたとはいえ、何か大事なものを手放すような気持ちが胸を締め付ける。

 特に、ほんの短い間のこととはいえ、この気まぐれな魔女との出会いがなかったことになってしまうということは。


「それは……俺がこの数日間で見たこと、聞いたこと――全部ですか?」


「ええ。厳密には、砂漠に足を踏み入れる前まで遡りたいから、ここしばらくのことね。……魔法の仕組み上、わたしたちに関わる記憶だけを選んで消すなんてことはできないから」


「……それは、セファーヌが助かったことも?」


「それはそうだけど、たぶん……気づいたら自然と回復してきた、って感じになると思う。だからきっと大丈夫」


 ティガスは小さくうなずいた。


「……わかりました」


 その仕草には、どこか自分自身にも言い聞かせるような色が滲んでいた。

 そして、ティガスは静かにクィムサリアに向かって一歩近づくと、両手でそっとその手を取った。


「本当に……ありがとうございました。クィムサリア様」


 その瞬間――。

 クィムサリアの瞳が揺れ、瞬きを繰り返す。

 何か言いかけた唇はかすかに震えたまま、身体は強張っているようにも感じた。

 ティガスの言葉は続く。


「……俺の記憶はなくなるのかもしれない。でも、これだけは。俺……この気持ちだけは忘れないと思います。きっと」


 それがただの願いでしかないことは、彼自身が一番わかっていた。

 けれど、この想いがほんの一片でも、どこかに残ってくれるのなら――と。


(ごくり……)


 まっすぐに自分を見つめたままそう告げたティガスの真剣な瞳を見て、つい大きく喉を鳴らしてしまったことをクィムサリアははっきりと自覚する。

 それと同時に、その音を聞かれていないだろうかとか、顔に出ていないかとか、そんな思考が頭に渦巻き、どんどん顔が火照ってくるのを感じた。


(ちょ、ちょ、ちょっと……まって……!)


 その悪循環を断ち切ろうと、できるだけ平静を保ちながらそっと手を引き抜くと、クィムサリアは静かに作り笑いを見せた。


「……バ、バカねっ。わたしの10分の1も生きていないくせに、偉そうなこと言わないの。でも――」


 その言い方は決して呆れているようなものではなく、むしろどこか、優しく見守るような響きを帯びていた。

 ティガスがきょとんとした顔を見せると、クィムサリアはふいに背を向ける。


「……このわたしがここまでしてあげたんだから、せいぜい長生きすることね」


 その言葉にティガスは少し驚いたような顔をしたが、すぐに真っ直ぐな目で頷いた。

 ティガスの胸に、じんわりと何かが染み込むような気がした。

 記憶には残らなくとも、この約束は――きっと、魂に刻まれると信じて。


「……はい、約束します」


 もちろん、彼がこの約束を覚えておけないことはクィムサリアにはわかっている。

 でも――きっと、この少年は約束を守ってくれる。

 なぜか、そう確信できた。


「……じゃあ、始めるわよ。サリュサ、お願い」


「あっ、はい。準備はできてます」


 これまで黙って部屋の隅で待っていたサリュサは、ようやく自分の番が来たかと、大きく頷いた。

 サリュサが目を閉じ、床に向かって両手をかざすと、黄色く光る魔法陣が姿を現した。


「それじゃ、さようなら。……たぶん、魔法の反動でしばらく眠ってしまうと思うから。妹さんを大切にしてあげてね」


 クィムサリアはそう言いながら、誰にも聞かれないように『……それは、わたしにはできなかったことだから』と自嘲する。

 ティガスは眠ったままのセファーヌの手を取り、もう一度はっきりと大きく頷いた。


「はい! 本当に……ありがとうございました」


 そして、その視線はすっと落ち、強くまぶたが閉じられる。


 それを見て、クィムサリアが魔法陣に手をかざした。

 しかし、心のどこかで、まだ躊躇があった。

 彼の想いだけは記憶に残してあげられたら良かったのに――と。


 クィムサリアは一瞬だけ手を止め、伏せたまつげの奥で何かを振り払うように目を閉じた。

 そして――


「――忘却せよ」


 淡い光がふわりと舞い、部屋の空気が静かに凍る。

 光が二人の体を包み、やがて彼らの意識は、すうっと深く沈んでいった。


 ◆◆◆


 ――爽やかな風が、小さな音を立てて木々の葉を揺らしていた。

 まるで彼らの記憶を風の乗せ、遥か彼方へと運んでいくように。


 村を見下ろせる小高い丘の上に立ち、クィムサリアはその音をしばらく聞きながら、じっと村を見下ろしていた。

 サリュサが後ろから声をかける。


「……リア様」


「……なによ?」


「いい兄妹でしたね」


「……そうね」


 クィムサリアは両手を腰に当て、小さく息を吐く。


「……さ、帰るわよ」


 そして、誰もいない道を一歩ずつ歩き出す。


 クィムサリアがすぐに転移しない理由がサリュサにはすぐにわかった。

 彼女の足取りが、どこか重く、それでいてどこか名残惜しそうでもあったから……。


 サリュサは足を早め、そんな魔女の横にそっと並んだ。

 言葉ではなく、いつでも自分が傍にいると伝えたくて。


 ――記憶には残らない出会い。


 けれど、確かにその出来事は実在したものであり、そのことをなかったことにはできない。


 ――もし過去を変えられるならば、自分はどうするだろう?


 クィムサリアは、あの兄妹の顔をもう一度思い浮かべながら、そんなことを自問自答する。

 もちろん、そんなことができないことは、わかっているけれども。


 自分ができなかったことを、彼ならやり遂げてくれる。


 その願いとともに、ほんの小さな祝福を遺してきたクィムサリアは、もう一度村を振り返る。

 ――まるで、名もなき記憶にそっと別れを告げるように。

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