第3話 ひとつ目の約束
「代償……」
ティガスは魔女クィムサリアの言った言葉を呟くように繰り返す。
すぐにはその意味が分からなかったが、頼み事の見返りのようなものだと理解した。
「そうよ。……それだけの覚悟を持って、ここに来ているのよね? それに、サリュサに『自分の命なんてどうなってもいい』って言ったって聞いてるわ」
クィムサリアは口元を緩めながら、サリュサに視線を向けた。
促されるように、サリュサはティガスから聞いた言葉を口にする。
「はい。確かに聞きました。命なんてどうなってもいいから妹を助けてほしいと、あなたはそう言っていましたね?」
「ティガスさん、間違いない?」
ふたりに念押しされたティガスは、この館にたどり着いた時の会話を反芻する。
確かに、勢いもあってそういった言葉を口にした記憶があった。
ただ、魔女がここでそういうことを話に出すということは……。
魔女は本気で自分の命と引き換えに妹を助けようとしてくれているのだろうか。
もしそうだとして自分は本気でそれを望むか、これまで深く考えたことはなかった。
館の前での言葉は、『どうしても魔女に会いたい』という一心から口に出た台詞だったからだ。
(本当にそれでいいのか……? 俺が死んだらセファーヌはどうなる……?)
既に戦争で他界して、自分たち兄妹には両親がいない。
親戚を除けば、お互い唯一の肉親と言っていい。
自分が妹に生きていて欲しいと思う気持ちと同じように、きっと彼女も俺には生きていて欲しいと願うだろう。
(それでも……俺はセファーヌを助けたい……!)
ただ、少なくともこの砂漠に足を踏み入れたとき、死ぬかもしれないという覚悟を持っていた。村の人たちに相談すれば間違いなく止められるだろうから、こっそりと抜け出してきたのもそのためだ。
それに、妹がいない未来に自分が生きていても仕方ないと思ったことも事実だ。
もし俺がいなくなったとしても、妹は俺の気持ちを理解してくれるだろう。
ならば――。
「俺は……!」
覚悟を決めたティガスがごくりと唾を飲み込み、震える口を開こうとしたとき、クィムサリアそれを手で遮った。
「ふふっ。命のほかに、他にあなたが差し出せるものがあるならそれでもいいわよ」
「他に……?」
言い直したクィムサリアの言葉を、ティガスは反芻する。
しかし、命に等しいような代償など、今の自分に差し出せるはずもないことは明白だった。
そして一度決めた覚悟を改めて口にした。
「いえ、俺は死んでも構いません……! それで妹が助かるなら……!」
「ふぅん……」
そんなティガスの目を、クィムサリアはほんの少し首を傾げながらじっと見つめる。
その瞳の奥深さに、少女の姿とは到底思えぬ底知れぬ怖さを感じつつ、しばらく視線を交わせた。
そして、クィムサリアがすっと目を細めると、低い声で告げた。
「……なら、契約成立ってことね――」
――どくん。
ティガスの心臓がひとつ大きく弾けた。
自分で言い出したことだが、改めて宣告されると、本当にそれでよかったのかという意識に囚われる。
同時に玉のような汗がどっと額を流れ、口の中はからからになった。
クィムサリアはティガスのその様子を表情を変えずに眺めていた。
――ティガスが幾度大きな息を吐いただろうか。
クィムサリアはようやく顔を少し伏せ、ゆっくりと目を閉じる。
そして、次に開いたとき――やおら顔をほころばせた。
「……ふふふっ。冗談よ、冗談。――魔女に頼みごとをしたいっていう、あなたの覚悟を試したってだけ」
「えぇ……!?」
あっさりと冗談だと言ってのけた彼女に、ティガスは呆けた声が口から漏れた。
「それにね、さっきも言った通り、治せるかどうかもわからないから。だから見返りなんて要らないわ。……ただ、ふたつの条件さえ飲んでくれればね」
「条件……ですか? それはいったい……」
ティガスが先ほどの『代償』とは違うだろう『条件』について聞き返すと、クィムサリアは人差し指を立てながら言った。
「ひとつは、わたしたちのことを誰にも明かしてはならない。それはこれからあなたの村に行った時もそう。それともうひとつは、これが終わったら、あなたからわたしたちに関する記憶を全て消させてもらう。わたしの魔法でね。ふたつとも同じように聞こえるかもしれないけれど、要はわたしたちのことを他の人に知られないようにしたいだけ」
「誰にも……ですか」
「そうよ。もちろん、あなたの妹さんにも。寝ているならいいけれど、もしそうじゃなかったら、彼女からも消させてもらうわね」
「それはなぜでしょうか……?」
ティガスは聞きながらも、なんとなく自分で答えはわかっていた。
いま実際に話している彼女の印象は、これまで想像していた『魔女』という印象とはかけ離れていて、人間味のある人物にも思えてきた。
それに、自分がたどり着けたのならば、これまでこの館に来た人物は他にもいたのだろう。
それでいて、魔女に関する記録を探しても近年の記録にはなく、噂話すら全くなかったのだ。
つまりそれは彼女に会った人物が口外せぬように記憶を消していたからなのだろうと想像できた。
「もちろん、これ以上面倒ごとに巻き込まれたくないからよ。あなたみたいな人が頻繁に来たら困るの。わかるでしょう?」
クィムサリアは「ふぅ……」と小さく息を吐き、ゆっくりと深く椅子に腰かけた。
そして、ちょっとバツの悪そうな顔で続けた。
「……まあ、妹さんを観ても観なくても、どっちみち最後にはあなたの記憶は消してしまわないといけないんだけどね。ごめんなさい。……それで、どうする?」
見上げられながら問いかけられたティガスは、慌てて首を縦に振った。
「は、はい! 是非お願いします!」
「『お願いします』だけじゃわからないわ。助けてほしいの? それとも、今すぐ記憶を消して帰る?」
「す、すみません! 妹を助けてください。よろしくお願いします!」
「わかったわ。それじゃ、手遅れにならないうちに行きましょう。あなたを先に村の近くまで転移させてあげるけれど、もしこの館のことや、わたしたちのことを誰かに話したりしたら……あなたや妹さんの命はないと思いなさいね?」
――ぞくり。
突然声のトーンが下がったクィムサリアの台詞に、ティガスは背筋を這い上がる悪寒を感じ、喉がごくりと鳴る。
彼女の口元は笑っているのに、その瞳は凍てつくような冷たさを湛えていた。
反射的にティガスは何度も大きく頷いた。
「もちろんです! 絶対に、絶対に誰にも言いません!」
「約束よ? ……サリュサ、ティガスさんを転移の間に連れて行ってあげて」
クィムサリアがサリュサに向かって促すと、彼女はこくりと頷く。
「はい。承知しました。――ティガスさん、こっちへ」
「わ、わかりました」
サリュサはさっさと部屋を出ていく。
ティガスは椅子に座ったままの魔女の視線を背中に感じながらも、そのあとに続いた。
◆◆◆
「ここは……?」
ティガスはひとり小さく呟いた。
魔女クィムサリアに促され、床に書かれたうっすら青く光る魔法の模様のようなものの上に立ったことまでは覚えている。
その途端、視界が真っ白になって思わず目を閉じ、そしてもう一度開けたときには、周囲の風景は一変していたのだ。
「――うっ!」
少し遅れて、眩暈に近い、これまで味わったことのない違和感が全身を襲う。
視界がぐにゃりと歪み、思わず足元がふらついた。
反射的に眉間を押さえて目を閉じて考える――これは魔法の影響なのだろうか?
しばらくそのままでいるとそれは徐々に治まってきて、ゆっくりと目を開け周りを見渡した。
今まで砂漠の中の魔女の館の一室に居たはずだ。
それが明らかに違う場所――森の中のような鬱蒼とした繁み――に立っているではないか。
森の中ということもあって、すぐには場所が分からなかった。
しかし、遠くに見える山々へと視線を向ければ、この場所が自分の生まれ育ったマルーン村からさほど離れていないことに気付く。
「セファーヌは……!」
すぐに頭に浮かんだのは、村に残してきた妹のことだった。
看病を伯母に任せて出発してから5日ほど経つ。
すぐに重篤な状態になるとは想像すらしたくないが、それでも自分の目で確認しないと落ち着かない。
ティガスは急いで方角を見定めると、村のほうに向けて走った。
◆
――その一方。
「リア様。素朴な疑問なんですけど、場所はマルーン村ってことしかわからないですよね? どうやって行くおつもりです?」
目立たぬ服――どこの街にでも溶け込むだろう、平民が着ているような恰好――を衣装箱の奥底から引っ張り出してきたクィムサリアに向かって、サリュサは疑問を口にしながらも頭の中では他のことを考えていた。
(うわぁ……。これ最後はあたしが片付けるヤツですかね……?)
その服を取り出す過程で周囲に散乱した他の服を横目に、サリュサはピクリと眉をしかめる。
主人であるクィムサリアが家事全般を得意としていない――というより、絶望的に苦手ともいえる――ことは、既に百も承知だ。
となると、それを綺麗に畳んで片付けるのが自分の仕事として降りかかってくることなど、考えるまでもない。
そのサリュサは既に同じような服へと着替えていた。
耳はどうにもならないから、すっぽりと頭を覆う帽子を被って隠している。
そして尻尾は長いスカートの中だ。よく見ればお尻のあたりが少し膨らんでいることがわかるが、その部分を凝視する人もいないだろうと、そのままにした。
そんなサリュサの頭の中など気にせず、クィムサリアはゆったりとしたワンピースを脱ぎながらにんまりと笑った。
服を脱ぐと、彼女のいっそう小柄な体が露わになる。
装飾のない白いシンプルな下着は、目隠しの必要などないこの館では、ただの習慣のようなものだった。
クィムサリアはちらっとサリュサに視線を向ける。
(むぅ……。サリュサってば、相変わらず……。いやいやいや、これ以上考えるのはムダよ、ムダ……)
自分のものと見比べたときのボリューム感の差を再確認したクィムサリアは、小さく首を振り着替えに手を伸ばした。
ポジティブに考えるならば、肩こりに悩まされないことだけは有り難いと言えるだろうか。
それに誰かに見せるような機会など、これまでも――これからもありはしないのだから。
クィムサリアは新しい服の上着を羽織り、ボタンを閉じながら、ようやくサリュサの質問に答えた。
「ふふっ。実は、あの彼には魔法で目印を付けてあるの。もともと砂漠で彷徨ってたときからなんだけど」
「あー、なるほど」
「だから彼がここに辿り着けたのだって、わたしが誘導してあげたからだもん。さすがに砂漠で干からびるのは可哀想だなって思って」
あっけらかんとした口調でクィムサリアは笑う。
ティガスと話していたときとは別人のようで、見た目相応の少女のような口ぶりだった。