第22話 忍び寄る影
――ちょうど昼時。
王都軍の詰所を出たばかりのティガスは、並んで歩くクィムサリアに視線を向けた。
「それで、行きたいところって?」
「ん? ……えっと、あの山見える?」
クィムサリアは足を止め、軽く振り返るようにして、王宮の奥に広がる小高い山を指さした。
「ナヴァール山だよね?」
それはティガスもよく知っている。
王都を囲むように連なる丘陵の中でも特に有名なその山は、体力作りのために兵士がよく登る『軽い登山コース』として知られていた。
風景も良く、王都の全景を一望できる場所でもある。
「久しぶりに来たら懐かしくて。……ちょっと疲れるかもだけど、いい?」
「いいよ。……でも、それなら王宮で待っててくれても良かったんじゃ?」
いま家に向かっているのは、訓練で汚れた隊服を着替えるためだ。
それに汗も流したかった。
一方、見学していただけの彼女の服装は整っていて、疲れた様子もない。
わざわざ自宅までついてきたうえに、再び王宮を回り込んでまで自分に同行する理由がいまいち分からなかった。
しかし、クィムサリアは少し困ったように目を伏せ、小さな声で答えた。
「それは……。あまり離れると反動が大きいからなの」
「反動……?」
「うん。さっき少し説明した、近くにいるとティガスさんに……ってアレ。実はわたしにも影響があるみたいで……」
彼女の声は、少しだけ震えていた。
それでも、言葉を選びながら丁寧に続けていく。
「ティガスさんの近くにいるとね……すごく落ち着くの。体が軽くなるというか、気持ちが穏やかになるというか……。でも、距離が開くと、なんていうのかな……こう、胸の奥がざわざわして、どうしようもなく不安で……」
ゆっくりと話すクィムサリアの横顔は、どこか恥ずかしげで、それでいて真剣だった。
「そうなんだ……」
「……たぶん、分けた自分の魂の一部が、遠くにいっちゃうせいだと思う。この魔法、使ってみたの初めてだったから……。そんなことになるなんてわからなくて……」
「……ごめん」
ティガスの素直な言葉に、クィムサリアは驚いたように目を瞬かせ、慌てて首を振った。
「あっ、ううん。別にティガスさんは何も悪くないよ。わたしが勝手にしたことだから」
――自分が勝手にしたことなのに、彼が罪悪感を覚えている。
その事実に申し訳なさを感じつつも、それ以上に嬉しく思っている自分に気付く。
(やっぱり……ティガスさんで良かった……)
それが顔に出てしまわないよう、少し伏せ気味にしていると、彼がなにか思い出したように続けた。
「あ……。もしかして、サリュサが言ってたのはこれのことだったのか……?」
「え、サリュサがどんなことを?」
「えっと、リアには俺が必要だとかなんとか……」
自分で言っておきながら、ティガスはその内容に顔を赤らめて頭を掻いた。
そんな様子を見て、クィムサリアは小さく吹き出した。
「ふふっ、そうかも。サリュサは知っているから……色々と」
(それだけでもないけど、ね……)
心の中で呟いた『本音』を言葉にするには時が満ちていない。
そう思って、つい漏らしてしまいそうになった言葉を飲み込む。
少しだけ沈黙が流れたあと、ティガスがふと思いついたように口を開いた。
「わかったよ。……でも、それなら必要な時だけ、その魔法を使ったらいいんじゃ……?」
それは素朴な疑問だった。
だが、クィムサリアの反応は少し戸惑いが混じったものだった。
「……それができたら……わたしも苦労しなくで済むんだけど……。この魔法はちょっと特殊だから……」
「そうなんだ……」
「うん。……だから、ごめんなさい。迷惑かもしれないけど、あまり離れないでいてくれると……嬉しい」
クィムサリアは隣を歩きながら、ちらっとティガスの顔色を窺うように視線を向ける。
そんな自分の目をしっかりと見て、ティガスはただ無言で頷いた。
(きっとティガスさんなら……。いま本当のことを言っても、きっと受け入れてくれるよね……?)
そう思いながらも……どうしようもなく怖くて、次の言葉を言い出せなかった自分に肩を落とした。
◆
改めて出直してきたふたりは、王都の中心街に戻ってきた。
王宮からまっすぐ続いた大通りには、両側に多くの商店が立ち並んでいて、この王都で最もにぎわいがある場所だ。
自分の隣を歩きながらも、きょろきょろと目移りしている様子のクィムサリアに話しかけた。
「昔と比べたらどう?」
遥か以前、彼女がこの王都に住んでいたことがあったと聞いていたからだ。
しかし、クィムサリアは小さく首を振る。
「どうかな……? わからない……。実はわたし、そんなに街を歩いたことがないから……」
「あ、そうなんだ……」
「うん。だから人がこんなにいるって初めて見たの。――あっ、いい匂い……」
クィムサリアは目を閉じ、くんくんと匂いの元を探していた。
確かにティガスにも、甘い匂いがはっきりと感じられる。
そして、その匂いが近くの店――多くの人だかりができている――から漂ってきていることに気づくのに、さほどの時間はかからなかった。
「ケーキ屋さんだね。甘いもの好き?」
「ケーキ……? たまにサリュサが作ってくれるけど……」
自分の知っているケーキとはなにか違うようにも思いながら、彼女はガラス張りのショーウィンドウに視線を向ける――
「な、な、なにこれっ……!? なにこれっ……!?」
彼女はガラスに張り付くようにして叫んだ。
ふわふわとした白いケーキ自体が初めて見たものだったが、更にその上には鮮やかな果物や艶やかなソース。
自分の知っている『ケーキ』とは似ても似つかないものだった。
「こういうケーキ、知らないの? 白いのは生クリームだね」
「え、生クリーム……っ!? これが……!?」
ショーウィンドウ越しですら、その甘い香りに涎が垂れそうになり、お腹は音を鳴らした。
「最近だとこれが流行りだと思う。俺も食べるのはセファーヌがたまに買ってきてくれたときくらいだけど。……食べたことない?」
ティガスが尋ねると、クィムサリアはティガスへと食ってかかる勢いで答えた。
「ないっ!! こんなの知らないっ! わたしが知ってるケーキって、ちょっと甘いだけのパンみたいなものに、干した果実を載せたくらいだもん! ……って、絶対知ってたでしょサリュサっ! なんで黙ってたのよぉ!!」
その場にいない従者へ怒りの矛先を向けて叫ぶクィムサリアに、周囲の客が振り返る。
「……ちょっと落ち着いて」
「あ……。うん……」
苦笑しながらも、ティガスは店の中に入るよう彼女の手を引いた。
そして――
クィムサリアが買い込んだケーキの数、5個。
明らかに多すぎると思ったけれど、「全部食べる!」と目を輝かせる彼女に反論できる空気ではなかった。
そして近くの公園のベンチに移動し、膝の上に置いた紙箱を開けて中を覗き込む。
店の中でもイートインスペースがあったのだが、せっかく天気がいいからと、外で食べることにしたのだ。
「ふふふ……。どの子から食べてあげようかな……?」
しばらく目移りしながらも、隅にあった白いクリームを纏ったケーキをそっと取り出した。
「最初はこの子にするっ。……さて、フォークフォーク……っと」
片手にケーキを持ったまま、木で作られた簡易フォークを箱の中から取り出そうと下を向いた時だった。
その瞬間――
――バサッ!
「きゃっ!? な、なにっ!?」
目を離した隙を見計らったかのように、どこからともなく飛来した鳥が、勢いよく彼女の手にあったケーキを掴んだ。
そして勢いそのままに、今度は羽を翻して空へと飛び去っていく。
あまりに突然の出来事に、さすがの『魔女』といえど全く反応できず、残されたのは僅かに手に付いた生クリームだけだった。
「え……。え……? ……わたしの……ケーキ……」
目を点にして飛び去る鳥を見上げるが、あっという間に空の彼方に消えていく。
だが、悪夢はそれだけでなかった。
――バサバサバサッ!
「ふええええっ!??」
再び別の鳥――先ほどよりもさらに大きな――が、あろうことかベンチの上に置いていたケーキの紙箱ごと掴んで飛び去って行く。
「――このっ!!」
今度は逃がさないと、キッと目を見開き、魔法で鳥を打ち落とそうと片手を向けた。
だが――
「ちょ、ちょっとまって!」
その手を掴んで止めたのはティガスだった。
いくらなんでも、賑わう王都の中心部で飛ぶ鳥を打ち落とす……というのは流石にまずいと判断したからだ。
クィムサリアもすぐにそれに気付いたのか、力を抜いて手を下ろす。
しかしその目ははっきりと潤んでいた。
「……わ、わたしのケーキが……」
がっかりしている彼女の肩にそっと手を置いて、ティガスは小さい子供を慰めるように優しく言った。
「仕方ないさ。……もう一回、今度は店の中でゆっくり食べようか」
「うん……。そうする……」
クィムサリアは指で涙を拭きながら、何度も小さく頷く。
その仕草は小さい頃の妹を思い出させるような――そんな気がして、ティガスはつい頬を緩めた。