第2話 魔女との邂逅
(ここは……?)
ぼんやりとした意識の中で、ティガスは天井を見上げた。
窓の外から差し込む光が、穏やかに部屋を照らしている。
――少なくとも、砂漠の中で倒れていたはずの自分がいる場所ではない。
首を動かして窓の外を見る。
そこには果てしなく黄色い砂漠が広がっているように見えた。
(……もしかして、ここは"あの"魔女の館なのか? )
自分が寝ていたのは、あれほど苦労して目指していた魔女の館なのでは、ということに思い至った。
はっと気づいて自分の体を確認する。
満月に照らされたこの館を見つけるまで砂漠を歩き通して汚れた体は、知らぬ服に着替えさせられていた。体の汚れもない。
なにより、食事をした記憶はないのに、体力も普段通りに感じられた。
――コンコン。
そのとき、部屋の扉がノックされ、すぐにガチャリと開く。
ティガスが顔を向けると、そこには館の玄関で話をした少女が立っていた。
「……助けてくれたのですか?」
ティガスが声を掛けると、サリュサは「はぁ……」とひとつため息をついた。
「館の前で野垂れ死にされるのも、非常に……とってもとっても迷惑ですからね」
彼女は呆れたような顔を見せつつ小さく息を吐くと、少し声のトーンを落として続けた。
「あなたも嫌でしょう? 自分の家の玄関に干からびた死体が転がっているのなんて。しかもそれを片づけるのはあたしの仕事なんですよ? そんなの最悪じゃないですか」
手に持つトレーの上に載せられていたコップ――中には水だろうか――をティガスに手渡した。
「あ、ありがとうございます……」
お礼もそこそこに、ティガスは水を目にした途端、急に喉の渇きが我慢できず、それを一気に飲み干した。
乾いた身体に染み渡るように広がっていくのが、心地よい。こんなに水が美味しいと思ったことは初めてだと思えるほどだ。
満足感とともに大きく息を吐く様子を見ていたサリュサは、彼のコップに水を注ぎ足す。
更にあとふた口ほど水を飲んだティガスに、彼女は穏やかな声で告げた。
「まあ、ここまできたら話だけなら通してあげます。ただし、何があってもあたしは知りませんけど」
「――えっ!」
「話を通してくれる」というのは魔女と会わせてくれる、ということだとすぐに理解したティガスはハッと顔を上げた。
「あー、でもタダとは言わないです。……そうですね、お礼はマルーン村で採れるっていうムーンフルーツでどうでしょう?」
突然頬を緩めたサリュサに多少面食らいつつも、マルーン村は自分の生まれ育った村であることにも驚く。
「それ、俺の村……ムーンフルーツの時期にはまだ少し早めですけど、そろそろ出荷が始まりますよ」
「ほほう? それはそれは偶然ですね。あの村の方なんですか。……昔、一度だけ食べたことがあるんですけど、もう本当に感動しましたよ。うへへ……」
(えっ……!?)
ティガスは驚いた。
さっきまでの冷たい態度はどこへやら、サリュサは目をキラキラさせながら涎を飲み込んでいる。
それまでだらんと垂れ下がっていただけの尻尾がパタパタと激しく動く様子が、何とも可愛らしく見えた。
先ほどまでのぶっきらぼうな態度とは全く違う、人間味のある彼女にティガスは緊張感を緩める。
しかし、すぐに真面目な顔つきへと戻ったサリュサはティガスに言った。
「立てますか?」
「は、はい!」
ティガスは慌ててベッドから立ち上がる。
そのとき、一瞬視界がふらついたが、すぐに持ち直して直立した。
「……うん。大丈夫そうですね。それじゃ、ついてきてください」
「はい」
サリュサはティガスからコップを受け取ると、部屋にあった小さなテーブルへと置き、そのまま部屋を出ていく。
ティガスは急いでそのあとを追って、同じように部屋を出た。
彼女が小柄なせいもあって、後ろを歩いていても周りがよく見える。
クイクイッと良く動く耳がどこから生えているのか疑問に思っていたけれど、人の耳と同じような場所から頭頂部にかけてふくらんでいるのが、後ろから見るとわかった。
となると、猫などと同じように頭の上に耳があるものの、骨格は人間とあまり変わらないのかもしれない。
そんなことを思いながら、周りを見渡す。
部屋からはわからなかったが、この館はかなり大きいようで、廊下も長く広い。
モノトーン調でシンプルな作りではあるが、光が様々な方向から入ってくるように考えられているのか、明るくてキラキラと煌めいて見えた。
自分が寝かされていた部屋のほかにも多くの部屋があるようだが、扉が閉まっていて中を見ることはできなかった。
「こちらです」
サリュサは廊下を突き当たった先にある、ひとつの部屋にティガスを招き入れた。
ティガスは立ったままで部屋の中をぐるりと見渡す。
広い円形の部屋には、中央にある三日月状の机のほかには目立った調度品は置かれていない。
机の上にはティーカップがひとつ、ゆらゆらと湯気をが立ち昇っていた。
見上げれば天井には明かり窓がいくつもあって、砂漠の強い日差しが光の階段を作っている。
しかし、室内は暑くも寒くもなく、ちょうど過ごしやすい気温に保たれていた。
(なんの香りだろう……?)
ふいに、鼻腔をくすぐる甘い匂いが部屋に漂っていることに気付く。
これまで経験のない――しかし、はやる気持ちが落ち着くような香りだった。
「お連れしました」
サリュサはそう言うと、誰もいない部屋の中心に向かって頭を下げた。
――その瞬間だった。
ざわっと空気が歪んだような気がした。
「……もう大丈夫?」
次の瞬間、頭の中に澄んだ声がはっきりと聞こえ、ティガスは目を見開いた。
はっとして顔を上げると、それまで確かに何もなかったはずの椅子に、いつの間にかひとりの女性が座っていた。
落ち着いた雰囲気から『大人の女性』だと最初は思った。
けれども、改めてよく見ると、ここまで連れてきてくれた獣人の少女と変わらない歳――まだ少女の面影さえも残しているようにも感じる。
(……この人が、あの伝説の魔女……?)
確かに神秘的な雰囲気はある。
だが――どこかで抱いていた『魔女』のイメージとは、あまりにもかけ離れていた。
とはいえ、不老と言われる『刻渡りの魔女』であれば、見た目通りの年齢であるはずもない。
珍しい緑色がかった髪は、プラチナのような澄んだ金属に薄く色を載せたような落ち着いた色合いだ。
ゆったりとした白い服で肌はほとんど隠されているものの、少なくともかなり小柄な人物であることはわかる。
長い前髪はクリップのような飾りで片方の目を避けているけれど、もう片方はそのまま前髪に隠されていた。短髪のティガスにとっては、それほどの髪だと視界の邪魔になりそうに思えるほどだ。
彼女の表情は落ち着いているように見えるが、先入観もあるのだろうか。
何か底知れぬものを感じながらも、ティガスは震える声を発した。
「あの……。あなたが魔女……様でしょうか?」
しかし、彼女はすっと目を細めて答えた。
「あら、わたしの質問には答えてくれないのかしら?」
「え……?」
一瞬、呆けたような声を上げたティガスは、最初に彼女が発した言葉を頭の中で繰り返す。
そして、慌てて口を開く。
「す、すみません! はいっ、もう大丈夫です!」
すると、彼女は満足そうにひとつ頷くと、片手を机に置きゆっくりと立ち上がった。
座っているときにも思っていたけれど、やはり上背はない。ティガスをここまで案内してくれた獣人の少女よりも、更に小さいだろうか。
「ふふ、冗談よ。……既に聞いてるかもしれないけれど、わたしはクィムサリア。魔女……って言われるのは好きじゃないから、名前で呼んでもらって構わないわ。あと、この子はサリュサって言うの」
悪戯な笑みを浮かべた館の主――クィムサリアは自らの名と共に、獣人の少女の紹介をした。
それぞれの顔を見てから、ティガスはここに来た目的を思い出しながら、自分の胸に手を当てた。
「俺――いや、私は……ティガスと言います! クィムサリア様にお願いがあって参りました」
「ふぅん……。一応その話、サリュサから少しだけ聞いているわ。妹の命がどうとか……? 説明してもらえる?」
クィムサリアは首を傾げながら、ティガスが寝ている間にサリュサから聞いた経緯を口にする。
少なくとも話だけでも聞いてくれそうな雰囲気に、ティガスは安堵の息を吐いた。
「はい。私の妹――セファーヌが、病気で……。いえ、病気かどうかもわからないのですが……。3カ月くらい前からどんどん痩せていって、今はほとんど食事も口にできなくなって……」
「ふむふむ……」
「もちろん、お医者様にも観ていただきましたし、町の神官の方にも……。ですが原因がわからなくて、悪化する一方です。それで、もしかすると魔女様――あ、いえ、クィムサリア様ならあるいは……と」
ティガスには言葉を選ぶ余裕もなく、この砂漠に来た目的を早口に話す。
これまで元気に村で共に過ごしていたセファーヌが原因不明の病に倒れ、それ以来手を尽くしてきたものの、症状が改善するような様子はなかった。
このままだと命を失うのも時間の問題に思っていたとき、偶然村を訪れた魔導士から『刻渡りの魔女ならあるいは……』という話を聞いた。
とはいえ、魔女に会ったという人物すら、100年以上前の魔女戦争以降、記録に残っていない。
ティガスは事前に王都まで出向き詳しい情報を得ようとしたけれど、そんな有様だった。
ただ、それよりも昔に遡ると、このクィムサリアは砂漠には住んでおらず、王都近郊で暮らしていたという記述が見つかった。
それに、この砂漠自体が魔女戦争の中心地だったということもあり、敢えて足を踏み入れる人など稀だ。
だが、僅かな可能性に賭けて、この館に向かうことにしたのだ。
「なるほど。……なんとなくわかったわ。でも、ひとつ先に言っておくけれど、わたしはお医者様ではないから、病気を治すことはできないわ。もしそうなら、わたしではどうすることもできない」
彼女の言葉は、ティガスのわずかな希望が崩れ去るものだった。
それでも、苦しむ妹の顔を思えば、ここで会話しただけで諦めてしまうことなどできなかった。
申し訳なさそうに言ったクィムサリアの表情を見て、ティガスは緊張で唾をひと口飲み込んだあと、震えた声を絞り出す。
「そ、そうですか……。せ、せめて一目妹を診ていただくだけでも……」
「そうね……。わたしはお医者様じゃない。……それでも、できることはあるかもしれないわね」
「――!」
前向きとも取れる彼女の回答に、ティガスは目を見開いた。
しかし彼が口を開く前に、クィムサリアは遮るように続けた。
「――でも、魔女に頼み事をするというのは、その『代償』も当然覚悟しているのよね?」
刻渡りの魔女――クィムサリアは、ティガスの心の中まで見透かすような視線を向けた。
まっすぐに、その青い片目で。