第10話 知らせを待つ午後
ナヴィル王国の王宮内――
石造りの廊下に、夏を目前とした眩しい陽光が強いコントラストを作っていた。
執務室のなか、セファーヌは自席にて手に持った書類を視線で追いかけつつも、先ほど耳にした話が気になって、内容は全く頭に入ってこない。
『聞いたか? バルグ砦が襲撃されたって話……』
『いや、まだ確定じゃ……でも、かなりの規模だったとか……』
『これからどうなるんだ……?』
周りの文官たちも仕事が手に付かないのか、ざわめきが耳をつく。
耳に飛び込んでくるのは、不穏な言葉ばかりだった。
情報が錯綜しているのは明らかだったが、それがかえって不安を煽っていた。
(お兄ちゃん……)
セファーヌは書類を静かに伏せると、席を立ち、足早に執務室を出た。
廊下に出ると、ようやく少し呼吸ができる気がした。
けれど、胸の奥に不安が渦巻き、居ても立っても居られなかった。
(そうだ……)
せめて誰かと話をして、気を紛らわせたい。
そう思うものの、王宮内には気の置ける友人はいなかった。
だからセファーヌは、いつもの休憩中によく足を運んでいた場所へと向かう。
それは王都軍の兵士の訓練場だった。
少し前まで兄がいたこともあり、よく顔を出しては訓練を眺めていた。
もちろん、そこに兄はいないことはわかっている。
しかし、兄の友人でもあるロルフは、同じマルーン村の出身ということもあり、これまで自分のことを気にかけてくれていた。
きっと相談にも乗ってくれるはずだ。
いつもの木陰に立って、訓練場のほうに視線を向ける。
すると、運よく自分に気づいてくれたのだろう。
ロルフが片手を上げながら、こちらに向かって歩いてきていた。
「――よお、どうした? 浮かない顔してるな」
「ロルフ……」
激しい訓練をしていたのだろうか。
額に玉のような汗を張り付けたまま、ロルフはいつもと変わらぬ調子で声をかけてきた。
けれど、セファーヌはほんの少しだけ、言葉をためらってから口を開いた。
「……もう聞いた? バルグ砦で、大規模な戦闘があったって。兵の多くが……もう、戻らないかもしれないって」
ロルフはしばし黙って、空を仰ぐように視線を逸らした。
そして、改めてセファーヌをまっすぐに見つめると、ゆっくりと頷く。
「……ああ。さっき聞いたよ」
「もしかしたら……」
セファーヌが不安を口にするが、ロルフはそれを遮って続けた。
「大丈夫だ。全員死んだってわけじゃねえ。なら、あいつは生きてるさ」
その口調には、不思議な確信がこもっていた。
「ティガスと俺は何度も手合わせしてきたけど、あいつほどしぶといヤツは見たことねぇ」
言葉だけでなく、真っ直ぐにそう言い切るロルフの眼差しに、セファーヌはほんの少しだけ肩の力を抜いた。
「……ありがと。ロルフ」
セファーヌの言葉にロルフは何も言わず、ただ軽く肩をすくめると、訓練場のほうへ戻っていった。
しばらくその背中を見送ったあとで、小さく息をついた。
完全に不安が消えたわけではない。
けれど、誰かと話ができただけで、ほんの少し気分が軽くなった気がした。
(私は……私のできることを、ちゃんとしなきゃ)
これほど大きな問題があったのだ。
文官とはいえ、しっかり仕事をしなければ、周りにだって迷惑がかかるだろう。
セファーヌは自分の仕事場――執務室へと足を向けた。
不安を紛らわすように再び書類の山に向き合った彼女のもとへ、第二報が届いたのは、それから間もなくのことだった。
「失礼します! 新しい報告が届きました!」
文官のひとりが、慌ただしく書簡を持って駆け込んでくる。
「バルグ砦の戦いは終結! 生存者は29名。被害甚大ではあるものの、前線部隊の奮闘により敵部隊を退けることに成功。現在は負傷無き者で砦を引き続き警備中とのこと。なお、負傷者は近々に王都に搬送される計画である」
その報告を耳にしたセファーヌはどきりとした。
手元の資料によれば、バルグ砦に配備されていたのは兄を含めて85人だ。
たった29人しか生き残っていない、ということは、普通に考えれば壊滅的だといっていいだろう。
すべての兵士の安否が気がかりではあるものの、それでも兄がその生き残った3分の1のなかに入っていることを願って、セファーヌは強く目を閉じた。
「――生存者と戦死者の名簿も届いています。掲示板に張り出しますので、各自確認を」
はっと顔を上げると、報告を読み上げた文官が、壁にある大きな掲示板に名簿を貼っているところだった。
セファーヌは周りのことも気にせず、慌てて立ち上がると、掲示板へと駆け寄る。
名前を確認することには恐怖もある。
(もし、戦死者の欄に名前があったら……)
自分のほかにも、数名の文官が掲示に集まっていた。
そして、真剣な眼差しで、兄の名前がないかを目で追っていく。
緊張で喉がカラカラに乾く。
(お兄ちゃんは……確か第3部隊……。――あった!)
元々常駐していた2つの部隊に加えて、今回ティガスが加わった部隊は第3部隊になる。
その一覧のうち、最後のほうに兄の名前があった。
兄の名前の横に記されていた記載は――『負傷』
見間違いがないか何度も確認したあと、セファーヌは安堵のため息をついた。
(よかった……!)
よく見れば、他の2部隊と異なり、兄の所属する第3部隊はほとんどの兵士が『死亡』となっていて、無傷の者はゼロだ。
それを見るだけで、その部隊が最前線で戦ったのだろうと推測できた。
「セファーヌさん、よかったわね」
ふいに後ろから声がかけられて、振り返る。
そこには、上司でもある局長のリマーネが立っていた。
まだ30歳そこそこと若い女性ではあるが、皆から慕われていて、セファーヌもよく相談に乗ってもらっていた。
もちろん、兄が戦場に行ったことも知っている。
「リマーネさん。 はい、本当に……よかったです。兄がいなくなったらどうしようかと……」
「私も……あなたが悲しむ顔は見たくないもの。本当によかったわ。負傷者は、明日王都に戻ってくるみたいだから、出迎えてあげなさいね」
「はい。わかりました」
軽く肩を叩いて自席に戻っていくリマーネを見送ったあと、セファーヌはもう一度名簿に目を向けた。
「もう……。相変わらず、心配ばっかりさせるんだから……」
滲みそうな涙を指でふき取ると、自分も残りの仕事を早く済ませようと自席に向かった。