【008】魔女の魔術
カサンドラが住まう村からアンブロの町へ出て、そこから整備された石畳の街道を無理せず進む。そうやって二日程度の時間をかけ、目的地に到着するような予定を組んでいる。
一日目の旅程は順調に消化され、グレイシャー伯爵領の端にある大きな湖沿いの町へたどり着いた。
富裕層の観光地でもあるこの町は、宿の数も豊富である。その中の清潔な中級宿の一室で、外套を脱いだカサンドラはベッドに身を投げ出していた。
「あー~……疲れた。腰に来る。馬は疲れる……」
「でも、飽きにくいのは利点だよな。今回は連れもいるから尚更」
「それは、そうなんだけど……身体的な疲労を考えると、やっぱり影のほうが楽ね……」
つっぷしたままのカサンドラの愚痴に、凝り固まった身体をほぐすように身体を伸ばすエフィストが応える。
カサンドラがここで言う影とは、彼女が持つもう一つの祝福――「影の祝福」のことである。これは、エマが監禁されていた場所から抜け出し、誰にも気づかれずに国境を越えるために必要なものだった。
影に潜み、影同士を繋いだ領域を進むことにより素早い移動が可能で、自らの影にはある程度までの重さの物体を収納できる便利なもの。元々は、大昔のセンチネル達が使用していた能力なのだという。
センチネルは今でこそ、姿を変えることにより空を飛んだりと世界を自在に行動しているが、昔はこの「影の能力」によって影に潜み、人知れず活動していたらしい。
しかし、便利だが制約も多いこの能力は、センチネルたちがその仕事に利用するには物足りず。結局は新しい能力が作られることになり、影の能力はその後誰かに使用されることもなく捨て置かれていた。
以前、先輩センチネルからその話を聞いていたエフィストの提案により、新たに影の祝福が付与された恵麻は監禁部屋から無事に逃げおおせた。その後もこの祝福が剥奪されることはなかったが、そのぶん周辺諸国の妖精関連の仕事――人知れず解決して問題がない些細なもの――を結構まわされている。
報酬の先払いなのだと思えば、これも仕方のないことだとカサンドラはもう諦めた。悪戯がすぎる妖精を影の領域に放り込んで強引に反省させるのは、現状ではカサンドラにしか出来ないという事実もある。
そんな影の祝福を、すべてが影だと判定される夜に使うことによって、この世界から少しずれた層に存在する影の領域をまっすぐ移動できるようになる。道が無ければ障害物も無い影の領域なら、カサンドラの住む村からマーガトン子爵領の領都まで、直線距離を進んで数時間だ。
最大の欠点は、影の領域は真っ暗で何もないこと。高速道路の長距離トンネルよりも退屈な光景が広がっている。境界を覗けば、一応は何かが見えるが……結局、主に移動する夜間ではそちらも真っ暗であまり意味がない。
ちなみに、進む方向を間違えれば当たり前のようにまったく違う場所に着いてしまうため、一見便利だが本当に使いにくい能力なのである。
「昔馴染みのうまい飯屋に連れて行ってくれるって行ってたし、俺は楽しみだなー」
「さすがベル家のお人よね。この道は交易港と王都を結ぶ主要街道だし、他にもそういうお店がありそう」
カサンドラはもそもそと身体を起こし、外套の内ポケットに入れてある虫除けの香り袋を取り出す。発ち際に、アーサーにも同じものを渡してあるものだ。
中身のハーブと一緒に入っている、更に小さな袋をつまみ上げて中身を確認すれば、内容物は全部で四つ。それぞれに、旅を意味する「ラド」、効率を込めた「エオー」、成功を願う「ウィン」、魔除けの「エオロー」の魔術文字を刻んである、指の先ほどの小さな木片だった。
刻まれた文字がぼんやりと光る様子を確認してからそれらを元に戻し、何の変哲もない虫除けのサシェに戻った袋を外套に入れ直す。すると、エフィストが毛づくろいをしていた頭を上げ、カサンドラに顔を向けた。
「…………護符もどきはどうだった?」
「作動はしているみたい。多分、一週間ほど続くと思うけど、実際の効果は……どうかしら」
「旅程は順調なんだし、効果が出てるって思っておきなよ。冷蔵箱みたく、わかりやすい現象があればいいのになー」
「んー、そうね……」
エフィストのぼやきに対して雑に同意をし、カサンドラは再びベッドへ寝転んだ。
この世界において、ルーンは魔女の知恵のひとつ。かつてセンチネルとして招かれた地球人が、神の協力を得て世界に加えたものなのだという。
しかし魔女の間に口伝で続いてきたこれらは、失伝に失伝を重ね、今ではもう簡単に刻める手っ取り早く有用なものしか残っていない。
たとえば、カサンドラの家のパントリーにある大きな木箱は冷蔵箱と呼ばれており、魔女の師から教えてもらったものだ。
大昔に存在したという、魔女――当時は聖女とのみ呼ばれていたが――が支配した帝国では、このルーンの力が大いに活用されていたらしい。今でも遺跡からその時代の物が発掘されれ、それらは遺物と呼ばれている。大半は壊れてただのガラクタと化しているが、現在も使用できる状態のものが稀に見つかっている。
――概念を理解した者が文字を刻み、色で染め、願いを込め、贄を捧げて起動する。
捧げる贄は大げさなものでなくて良い。魔女が所持するものなら何でも――小石一粒でも、匙一杯の砂糖でも、大量の大金貨でも、何でもいい。
なお、贄を捧げる行為が魔女の感覚に頼る部分であるため、良好な状態の遺物が見つかっても基本的には魔女にしか起動できないのが原則だ。しかし、魔女以外の者が起動してしまう事故が極めて稀な確率で起きることもある。多くはなんてことのない生活道具であるため、何の問題もないが……万が一、兵器の類が現在も使用できる状態で発見されたら厄介である。
カサンドラは、趣味と実益を兼ねてこの世界のルーンの研究をしているが、色々と解明できたとしても兵器は作りたくない。
「……でも、空を飛べる箒は作りたい」
「魔女だから?」
「そう。せっかく魔女になれたんだもの」
恵麻は昔から魔女になりたかった。
神秘の隣で自然と生きる姿は、時間が忙しく進む現代日本にどこか気後れを感じていた恵麻の憧れだった。
憧れを募らせつつも密かにオカルト趣味を楽しんでいた経験が、こんな風に活きるだなんて想定外にもほどがあるのだが、恵麻は今それなりに満ち足りている。
だから、心が砕けるほどに深く傷ついたエマは、どうすれば満ち足りるのだろうかと考えてしまう。
カサンドラは答えの出ない疑問を胸に抱え、夕食に出るまでの少しの時間に身体を休めるため瞼を下ろした。