【004】アーサー・ベル
庭の木の下に簡易的なテーブルセットがあり、カサンドラはそこに清潔な布を敷いてからバスケットの中身を取り出した。
木陰に吹き込む風は涼しく、カサンドラはよくここで食事や休憩の時間を過ごしている。
結論から言えば、アーサーは玉ねぎのピクルスをあっさりと飲み込んだ。
リーフレタスとルッコラに玉ねぎのピクルスを和え、焼いたベーコンと一緒にピタパンで包みジェノバソースを掛けたピタサンドを、アーサーは好意的に受け入れていた。
カサンドラとしては、味が若干とっ散らかっている感覚があるので、次にこの組み合わせで作る際はソースを薄味にしようと心に決める。そもそも玉ねぎのピクルスは、それを好物とするパム爺のためにセレクトしたものなので、次回以降はオリーブのピクルスに変えてもいいのかもしれないとも考えているのだが。
「ピクルスはキュウリのしか経験がなかったけど、玉ねぎもいいですね。キュウリのピクルスは祖父の好物だから、実家には本家からたくさん送られてきていて……あっ」
「アーサーさん、やっぱりいいとこの出なんですね……」
どちらかといえば冷涼で乾燥気味な気候のこの地域では、美味しいキュウリは栽培が難しい。手間がかかるため、緑の祝福を持つ庭師を多数抱える貴族が屋敷のキッチンガーデンで育てていることが多いのだ。つまるところ、美味しい生キュウリはステータスの一種である。
口が滑ったとばかりに視線を逸らすアーサーに、カサンドラは長い息を吐きながらじっとりとした目を向けた。
「あー……カサンドラさんは、言葉遣いや所作が綺麗なので、どうもあちら側の人と話している気になって……あと、このソース胡椒の気配がするし……おいしい……」
「それはそれは光栄ですこと。一生懸命学んだ甲斐がありましたわ」
アーサーは目線を彷徨わせながら、しどろもどろに言葉を選ぶ。どうやらこの状況全体で、彼の感覚を惑わすことに成功したらしい。
これらは偶然の産物で狙ってやったわけではないのだが、カサンドラは謎の達成感に包まれていた。
作法などを一生懸命学んだのは幼少期から聖女として育てられたエマだが、この身体にはエマの所作が身についているため、カサンドラも自然とそう振る舞えるようになっている。とはいえ、市井では上品すぎて浮いてしまうため、粗野にならない少し丁寧な程度にまで崩し順応してみせたのはカサンドラ本人の努力によるものだ。
しかし、そのあたりの事情を他人に話すことはできない。この程度の説明なら、魔女は貴族と直接対応する場合もあるため、師匠から厳しく教え込まれたのだと受け取られるだろう。
そんなカサンドラがわざとらしくツンとした言葉遣いで返せば、アーサーも観念したように自らの事を話しだした。
――アーサーの実家は、カサンドラにとって想像以上のものだったのだが。
「もう……………………ガチ上澄み、じゃないですか。そちらの商品には随分とお世話になっております」
「いやー、おれは家業にも本家にもそんなに関わっていないのでー……ご愛顧ありがとうございます」
彼の言う家業とは、交易品の他に国内製造のガラス製品を幅広く手掛けるハーティ・ベル商会。
庶民向けのブランド「グラスベル」の商品は、カサンドラもよく使用している。お茶の入った瓶もピクルスを漬けている保存瓶も、そのブランドのものだ。手頃な価格の割に質が良く、カサンドラは少しずつ買い進めている。
アーサーの眼鏡は、ハーティ・ベル商会のハイブランドのものだろう。近くでよく見れば、フレームのどこかに刻印があるのだと思われる。
なお、ハーティ・ベル商会を経営しているベル家は、カサンドラの住まう地であるグレイシャー伯爵領の領主一族である。アーサーが言っていたピクルス好きの祖父というのが、商会の創設者である前伯爵の弟で――つまりアーサーは、本人の申告通り貴族籍の無い平民なのだが、高位貴族の家系図に名が載る程度にはしっかりとした身分を持っている。
ここの地域一帯において「ベル」という姓は決して珍しいものではないが、グレイシャー伯爵領の「ベル家」となると影響が大きい。家から離れて市井で生きるアーサーが出自を隠したがるのも、なんとなく理解ができた。
「次兄は本家の若様の侍従で、姉のひとりは下位貴族の家へ嫁に行って……みたいに兄姉はあっちへ進んだのもいるんだ。おれも寄宿学校には行かせてもらったけど、どうにもあちらの社会には馴染めなくて。思ったことがすぐ表情に出るから、商売にも向いていないし」
「あら、人としては好ましいことだし、悪いことではないでしょう?」
「そう受け取ってもらえるのは有り難いな」
寄宿学校を出た後は、領の公務官として港で関税周りに携わっていたらしい。
ここ、グレイシャー伯爵領は国境に接していて、国境線上に位置する運河を利用した交易で潤う土地なのだ。結果的には商売に向いていなかったとはいえ、交易品を取り扱う商家の子として上等な教育を受けた知識は、随分とアーサーの役に立っただろう。
「……それで昨年からアンブロへ移ってきて、暫くは物流にまつわる仕事をしていたんだけども、魔女担当になるって話が来て今に至る」
「それはなんか……申し訳なくなるわね……」
「どうして? 魔女担はなりたくてなれるものじゃないし、カサンドラさんがいい人だから既に楽しい」
「そう思ってもらえるのは有り難いけど、あなた前向きねぇ」
あっけらかんと言うアーサーに、呆れた顔のカサンドラから少しだけ肩の力が抜ける。
アンブロは交易港と王都を結ぶ街道の宿場が大きく発展した町だ。それなりの規模の町なので左遷……というほどでもないのだろうが、数多の商品が行き交う国境の港に比べると格が落ちるのではないだろうか。
現状では、アーサーにこの任を命じた者の意図が読めない。
グレイシャー伯爵家とは多少なりとも付き合いがあるので、領主一族に近い人物との関わりを魔女に持たせておきたかっただけとも思い難い。
「(もしかしたらこれ、アーサーとの縁組を狙われているのかも。いまは仲人不在のお見合い中ってこと?)」
カサンドラはそう考えるに至った。おそらくアーサー本人は、本当に何も聞いていない。考えがすぐに表情に出てしまうというのは、事実なのだと思う。
そして、少し話をしただけの現段階でも、カサンドラがアーサーに人としての好印象を抱いているのも事実。
アーサーの人柄を見込んだだけなのか、はたまたカサンドラとの相性を考えた上での人選なのか。
裏など何も感じさせないように、アーサーは自らの言葉の通り楽しそうに笑い、グラスベル製のガラスコップ越しにお茶の水色を眺めている。
いったい誰が青写真を描いているのかが不明瞭で落ち着かない。カサンドラは溜息を噛み殺すしかなかった。