【023】魔女の溜息
「………………………………はぁ……」
「あのさァ、うちに来てまで溜息を吐くの止めてくんない? 幸運が逃げて……いえ、溜息が幸運なのよね。いいわ、どんどん我が家で幸運を吐き出していって」
「あたし、ダーラのそういうとこ好きよ……」
現在は、マーガトン子爵領から帰ってきた翌日。
カサンドラがじっとりとした視線を向けるのは、赤子に乳を与えている女――村長の娘のダーラである。
ダーラには、カサンドラがこの村に来たときから世話になっている。
まずは彼女を通じて若い女衆のコミュニティに入れてもらったし、それからも何かにつけて世話を焼いてくれる。カサンドラにとって、頼りになる姉のような存在なのだ。
「で、何。マタニティブルー? アタシも話くらい聞くけど、悩み迷いは愛しの旦那サマに聞いてもらうのが一番よ?」
「その妊娠疑惑どうなってるの。妊娠してないし結婚もしてない! そこまで膨らませて言い触らしたのも、どうせあなたのおしゃべり長男でしょ!?」
「アイツ、誰に似たのかほんっとに想像力が逞しいのよねー!」
けらけらと大げさに笑いながら、器用に授乳を続けるダーラは二児の母。彼女の長男は、カサンドラがマーガトン子爵領へ出発する際に見かけた子ども達の中にいた少年である。カサンドラがアーサーと共に馬に乗っていたという状況だけで、ふたりは村の外で結婚を済ませており現在は第一子を妊娠中……ということになっていた。それらは既に、面白おかしく村中に広がっているらしい。本気にしている大人は流石にいないだろうが、からかいの種にはなる。カサンドラはこれ以上何も考えたくない。
なお、ダーラの前で彼女の長男が誰に似たかということについての推察を披露するのは、止めたほうが良い。これは村人の総意である。
「さて。じゃぁ、ちゃんと聞くけど……どうしたの?」
「………………………………………………………………告白された」
「誰に?」
「…………その疑惑の相手に」
「えっ、ヤダ、絶対に面白い話じゃない。腰を据えてしっかり聞いてあげるから、話すのはお茶を淹れ直してからよ!」
「はいはい……絶対に面白くないけどね……」
授乳を終えたダーラは、げっぷをさせるべく赤子の背をとんとん叩く。
姉貴分の命令を受けたカサンドラはのろのろと立ち上がり、ハーブティーを淹れるべく手土産として持参した乾燥カモミール入りの麻袋を開けた。
――カサンドラが思い返すのは、昨日の夕方。
アンブロの町に帰り着いたのは、夏の日没にはまだ余裕がある頃だった。
その時はまだ明るいとはいっても、これから村まで往復をするのならば復路の頃にはだいぶ暮れてしまう。よって、残りの距離は影の領域を通って帰ると、カサンドラはすぐに決める。
最後まで送るとアーサーも流石に渋ったが、リスクを考えてもコストを考えてもこれが一番効率良いのだとカサンドラが説けば、彼も最終的には頷いた。
とはいえ、今からカサンドラが村の家まで帰ったところで、疲れた身体では夕食の用意も面倒。
そもそもがまだ絶妙に明るいため、影の領域での帰り道を探る必要があるのも面倒。
ある程度暗くなるまで時間を潰す必要もあり、その日はそのまま夕食を共にすることになった。
アーサーが職場の人とたまに来ているという隠れ家的な店で舌鼓を打った後。点灯人によって大通りの街灯が灯される頃に、その話は唐突に切り出される。
別れの挨拶のために向かい合うと、アーサーがカサンドラの左手をそっと持ち上げた。
「カサンドラさん、好きです。結婚してください」
「ええ、それではまた明後日…………ぇあ?」
それまでの流れで完全に油断をしていたカサンドラは、ぽかんとした間抜けな表情を晒した上に気の抜けた妙な声を漏らした。
「あっ、今すぐに応えて欲しいわけではないんだ。それに、その……もしこれのせいで姿を見たくないほどに僕が嫌になったのなら、上役を通して『色目を使われた』とかなんとかで解任してくれてもいいし。いやまあ、それはただの事実だから何の申開きもできないし。だから、うん、こっちのことは気にしないで、自分のことはどうとでもできるよ。カサンドラさんは気にしてしまうかもしれないから、自分の気持ちのことだけ考えて欲しいってことなだけで……えっと」
あまりの事態に混乱してしまったカサンドラは「アーサー本来の一人称は僕なんだなぁ」などと、あえて思考を脇に気をそらして冷静さを取り戻そうとする。
しかし、何かを言わなければならないことはわかっているが、何を言っていいのかわからない。
「驚かせてしまうことはわかっていたけど、僕がまごついている間にカサンドラさんが誰か別の人を選んだら悔やみきれないと思って。まだ出会ってから一週間程度だけど、一緒に居て居心地が良かったのが一番の理由。だから、決していい加減な気持ちではなく、今回迷惑を掛けてしまったからこそ挽回していきたいと思うし……」
アーサーが一生懸命に繰るまっすぐな言葉を、今のカサンドラでは受け止めきれない。なにせ彼のことは嫌いでなく、むしろ人として好感を持っているのだ。
だからこそ、答えの存在しない問いを頭は考え続けてしまう。その言葉を信用したい気持ちと、それを裏切られたときの痛みについて。
「――あ、ぅ………………保留。とりあえず、保留っ! おやすみなさい!」
頭の中を駆け巡る問いに答えは出ない。カサンドラはその場から駆け出し、考えることからも逃げ出した。
逃げたカサンドラを見て溜息を吐く黒猫を、置き去りにして――。
適当に相槌を打っていたダーラは、カサンドラが申し訳無さそうにぽつぽつと話す内容を咀嚼し、反射で出てきた罵倒を飲み込んだ。
「んで、そうやって保留にして逃げてきたの? 超優良物件な激レアエリート君を保留? これがモテるイイオンナの余裕? いけ好かないわァ……」
満腹でうとうととする赤子をあやすダーラは、低く小さな声でカサンドラを詰る。
半分冗談で半分本気なその内容は、カサンドラの耳をチクチクと刺してくる。カサンドラとてアーサーにひどい対応をした自覚があるので、その指摘は全身で受け止めたいところだが、一部が聞き捨てならない内容だ。
「別にモテないし。モテてたらこの年で独身してないし……」
「求婚者を全員叩き出しておいて何を言うか、こんの高望み女が!」
「あれ求婚者っていうか、大半が遊び目的だったと断言するわよ!」
それはカサンドラが独立した数年前のこと――つまりは師匠が町へと引っ越した頃の話だ。
村の当時の独身男が、夜にカサンドラの家をひとりで訪れるという事態が頻発していたことがある。
はじめは急患のため薬師を頼りに来たのかと丁寧に対応していたのだが、実際はカサンドラを口説きに来ていただけだった。中には強引な者も居たため、そのうち夜にひとりで訪ねてきた男を問答無用で叩き出すようになったという過去がある。
中には本気の者も居たのだろうと今なら思うこともあるが、当時のカサンドラには余裕がなかった。自分のことに精一杯だったのだ。
そんな過去を思い返してぎゃんぎゃんと声を荒げる女達に驚いた赤子が、ぐずぐずとむずがりだす。
ふたりは慌てて宥めるも、時すでに遅し。眠気を散らされた赤子はこの場の誰よりも大きな声で泣き喚くしかない。
暫く後、赤子が再び眠りについてカサンドラが長く細い息を吐いた頃には、淹れ直したハーブティーはだいぶぬるくなっていた。
ぬるい茶を飲み干しながら、カサンドラは再び考える。
いまは、アーサーに対するカサンドラの心以外にも大きな問題がある。
だってこの身体は、元々「エマ」のものなのだ。エマの心はもう壊れているとエフィストは言うが、だとしてもこの身体は「恵麻」のものではない。恋人とか夫婦だとかのそういった触れ合いをしてしまうのは、まだ抵抗がある。
エフィストに相談したとしても、「もう『カサンドラ』なのだから好きにすればいい」としか言われないのはわかりきっている。そして、自分のためにもそれが正解なのだろうと、理性は理解している。
それでも割り切れないカサンドラの感情は、複数要因でがんじがらめになったまま、ここで立ち止まり続けている。




