1-5 淳一の夢と礼子の技術
母礼子は、コーヒーカップにちょっと薄めのコーヒーを注ぎ、長男の淳一と自分の前に置いた。
礼子は、淳一のためにアメリカンコーヒーを入れたのであった。
程よい香りたつコーヒーを前に、
礼子は、
「それで、
さっきはどうして、あんなに真っ青な顔をして降りてきたの。
朝はいつものように、母さんの言うことを適当に聞き流して、二階にあがったのに」
淳一は、コーヒーを飲みながら、ハッとして顔を上げた。
「そうだ、すっかり忘れてたよ。
うーん、
うーん、
どこから話したらいいかなぁ。
要は、洋子姉さんが、ビルの屋上から飛び降りるところを見たんだよ」
「どこで」
「二階の自分の部屋で、いや、向かいのビルの屋上から」
「どうやって」
「自律訓練法をやってて、なんだか水中を気持ちよく漂ってるみたいな感じの時、
突然、自分がビルの屋上にいて、洋子姉さんが向かいのビルの屋上から、飛び降りたのが見えたんだよ。
うん、信じてもらえないかも知れないけど」
「何、言ってんのよ。
母さんには淳一がウソ吐いてるかどうかぐらい、簡単に分かるわよ。
本当に現実としてそんなことが起こったかどうかは別として、淳一が目撃してそれを信じていることだけは分かるわね。
それで、飛び降りて、その後どうなったの。
死んだの、生きてるの」
「母さんは、そんな世迷言みたいな話を僕から聞いても、驚かないの」
「そうね、それで、どうなったの」
「まったく、なんか調子狂っちゃうなぁ。
残念ながら、姉さんが飛び降りたところまでで、その後どうなったかまでは、見てないよ。
それよりも、
起きようとしたら、
体中が硬直してて、
目も開かない、
手も足も全くうごかない、
息もできない、
それで、
苦しくて苦しくて、
死ぬんじゃないかって思って、
すごく怖かったんだよ。
飛び降りたのを見たのは、夢かも知れないけど、こっちの息が出来なくて苦しかったのは、実際自分の身に起こったことだからね。
あれが、金縛りって言うのかなぁ」
「さぁねー。
母さんは、金縛りなんかの経験がないからよく分からないわね。
でも、息も出来ない程、体が動かないって聞いたことないがないわね〜。
つまり、息を吸い込むことも吐くことも、出来なかったんでしょう。
そりゃあ、苦しくて死ぬかって思ったでしょうね。
そう〜、怖かったわね〜。
それで、今、生きてる気持ちはどう?」
「なんだか、からかわれてるみたいだな〜」
「わかるぅ。
でもね、淳一が見たものが、ただの夢か、
それとも何かの超能力みたいなので見たのか、どっちだったかは、そのうち分かると思うわよ」
礼子は、少し目をつぶってじっとしていたが、目を開けて、
「そうね、洋子ちゃんは、大丈夫みたいだよ。
ただ、全身なんだか痛くて、調子悪そうだけどね」
「母さん、分かるの?」
「ふふーん、まぁね。
そうねぇ、そう淳一が小さい頃、
よく怪我をしたり打ったりして痛かった時、
よく母さんそこに手を当てていたよね。
しばらく手を当てていて、
痛いの痛いの飛んでけーっていったら、痛みがとれていたでしょう。
実はね、あれは、
痛い場所が分からなくても、
手を当てれば、どこが悪いか分かるし、
それに遠く離れていても、出来るものなのよ」
「そう言えば、小さい頃よくしてくれたね。
でも、それ遠く離れていても、出来るものなの?
もし、それが本当なら、なんか母さん超能力者じゃん。
すごいね」
「すごいことないわよ。
昔から手当てって言っているでしよう、あれよ。
この力は人間誰しも備わってるものなの、
特別なことなんかないわよ。
ただ、人によって、上手下手はあるけどね。
それに悪い場所を探したり、
離れている人にも出来るようになるには、
練習も必要よ」
「そんな話、初めて聞いたよ」
「そうね、淳一には、初めて話したかしらね〜。
でも、貴子ちゃんも結構上手よ」
「貴子姉さんも出来るの、すごいや」
ちょうどその時、固定電話が
ルルルー、
ルルルー、と鳴り出した。
二人は、顔を見合わせ、目を大きく見開き互いに見つめあった。
礼子がゆっくり電話に近づいて、受話器をとった。
「もし、もし、篠田です」
「もしもし、こちらY警察署の野田と言います。
そちら篠田洋子さんのお宅でしょうか」
「はい、洋子は私の娘ですが、何かあったのでしょうか?」
「はい、篠田洋子さんが怪我をされて、Y大学病院の救急に運ばれたそうです。
急で申し訳ありませんが、すぐに出来るだけ早く、そちらに行ってもらえんでしょうか」
「怪我って、どんな怪我なんですか?
いったい、何が起こったのですか?」
「それが、私にもまだよく分からんのですよ。
私も今から現場を確認して、すぐに病院の方へ行きますから、そちらで詳しいことを」
「あっ、はい、そうですか」
「では、後ほど病院でお会いしましょう」
「はい、失礼致します」
礼子は、ゆっくりと受話器を耳から離して置き、すぐに淳一の方を向いた。
「淳一、行くわよ、支度して」
「行くって、どこ?」
「洋子ちゃんが怪我をして、Y大学病院の救急に運ばれたらしいの。
それで、警察から直ぐに病院へ行ってくれって」
「わかった、着替えて来る」
淳一が部屋着を着替える間に、礼子は夫の浩一郎へ連絡をした。
淳一の運転で病院へ向かいながら、淳一が、
「でも変だよね〜、警察が警察署に来いってのは分かるけど。
普通、病院へ来いって病院からでしよう。
なんで、警察が病院へ来いって言うのかなぁ」
「母さんにも、そんなこと分からないわよ。
でも父さんは、洋子はまだ大丈夫だから、心配ないって」
「それどう言う意味、まだ大丈夫だって。
それに父さんに、なぜそんなことが分かるの」
礼子はそれには答えず黙っていた。
二人の沈黙の間、二人は先程淳一が話した夢の話に思いを寄せていた。