3-8 精神科医 友田教授登場
しばらく待っていると、
「篠田さん、1番診察室にお入り下さい。」とアナウンスがあった。
それは、ちょっと低めの声だが、明るく軽やかな呼出しでもあり、洋子はその声を聞いて、ほんの少し緊張が和らいだ。
礼子は、車椅子を押して診察室に入り、友田教授の前で車輪のロックを掛けた。
「あっ、お母さんはいいですよ。申し訳ありませんが、終わるまで、待合で待って頂けますか」
礼子は、後ろ髪を引かれるような思いで、診察室をあとにした。
「私は、精神科医の友田です。宜しくお願いします。
貴女は、篠田洋子さんですね。
すいませんが、名前と生年月日を教えてくれませんか」
「はい、篠田洋子と申します。
生年月日は、*年*月*日です。
宜しくお願いします。」
しばらく、ニコニコしている友田教授を見ていると、洋子もダンダンほほが緩んできた。
「今の調子は、どうですか。気分が思わしくないなどありませんか」
「はい、今は普段と変わりません。
ただ、下を向いて立ち上がると、少しフラフラします」
「そうですか、それは難義なことですね。
その件は、少しおいてあとにしましょう。
一昨日から色々あったみたいですが、覚えてますか」
「いいえ、昨日までは、もっとよく覚えていたと思いますが、今は飛び降りたことと、処置室で自分を見下ろしていたこと、人の背後に何かもやのようなものが見えたことぐらいで、あとは何も覚えてません」
「飛び降りたことについて、何か心当たりはありますか」
「いいえ、なぜそんなことをしたのか、理由が分かりません」
「今も、ベットくらいの高さでも、下を見ると恐いですか」
「いいえ、そんなことはありません」
「でも、フラフラするのですね」
「はい、少し」
「今は、どんな気持ちですか」
「と言うと」
「例えば、何か不安だとか、恐いとか。
または、今困っていることはありませんか。
よく眠れますか」
「今、特にベットから下を見ても、不安感や恐怖感はありません。
睡眠も、今のところは眠れないと言うことはございません。
ただ、何も思い当たらないことでの出来事でしたから、またいつ同じようなことが起きるかと思うと……。
それが不安ですね。
それに、今回は、特にケガらしいケガしてもなかったので」
「そうですかカウンセリングがご希望だと伺っていますが、そうですか」
「はい、希望してます。
特に、斉藤裕子先生のカウンセリングを希望してます」
「はい、分かりました。
斉藤先生のスケジュールは、よく分かりませんが、出来るだけ早くカウンセリングが始められるように手配しましょう。
今日は、これでいいですよ。
お疲れ様でした」
「ありがとうございました。
失礼します」と、洋子は礼子の待つ待合に出た。
「洋子ちゃん、早かったみたいだけど、友田先生はどうだった」
「う〜ん、なんか、通り一遍のこと聞かれて、それで終わりかな。
でも、斉藤先生は出来るだけ早く始められるように、手配するって」
「そう、良かったじゃない」
「うん、それが今日一番の収穫かな。
それより、何だかお腹減っちゃった。
今日の夕食は何かなぁ」
洋子は心配している回りの気も知らないで、斉藤先生と会えるって、一人はしゃいでいる。
そんな洋子を見ながら、やれやれと礼子は車椅子を押して行った。
洋子が友田教授の診察室を出て、しばらくは友田教授は洋子のカルテを再度見直しながら考えていた。
おもむろに、受話器を取り上げ電話をかけた。
「はい、篠田です」
「友田だ」
「おう、友田か、今日は突然のお願い、すまなかったな。」
「いや、そんな俺のことはいいんだけど。
今回は、ちょっと、強引過ぎるぞ。
患者から、カウンセラーの名指しなんか、初めてだ」
「まぁ、まぁ、そう言わずに。
洋子は、斉藤先生のこと何か話たか」
「いや、何にも。
それに明らかにショックによる健忘の傾向がみられるのに、初対面でそんなことまで聞けるか。
それに何か、斉藤君じゃないといけない理由でもあるのか。
俺が、カウンセリングするってこともあるんだぞ」
「いやいや、お前じゃダメだ」
「何で」
「どうやらあの二人は、前々からの知り合いみたいでな」
「お前がそう言ういい方をするってことは、あの二人は前世か過去世で知り合いだったってことか」
「そうだ、おそらく前世で姉妹だったようだな」
「おい、おい、そんな発言は気を付けろよ。
俺は昔からの付き合いだから、お前の考えは分かるし、個人的に賛成してる。
だがなぁ、学会でそんなこと話したら、友田は頭がおかしくなったって言われるんだぞ。
それに、お前は一応物理の教授だろ。
大丈夫かいな」
「あ〜、分かった、
分かった。
ところで、娘の他の検査結果はどうだった」
「さっき、もう一度見直したが、今のところすべて異常なしだ。
頭のMRIも、心電図も、整形も耳鼻科も異常なし。
つまり器質的な異常は発見できなかった。
ちょっとふらつく以外は、特に異常なしだ」
「ふらつく、何だそれ」
「お前知らないのか、父親のくせに」
「あ〜、ごめん、ごめん。
その話は初耳だな、どうしたんだ」
「何でも下を向いて立ち上がると、フラフラするらしい。
正面を向いて立ち上がった時は、フラフラしないとある。
ちなみに、耳鼻科的な問題では無さそうでもある」
「すると、一種のトラウマか」
「今の段階では何とも言えんが、その可能性はある。
それに、5階の屋上から飛び降りたんだろ、普通だったら、足がすくむ高さだ。
本人は理由を思い当たらんって言ってる。
自殺企図のない人間が、飛び降りたんだぞ。
それに、うつ病の症状もなさそうだしな。
多少のトラウマかなんか、あっても当然だよ。
おい、いったい、何があったんだ。
5階から飛び降りて、ほとんど無キズって、聞いたことないぞ。
彼女に何が起きてるんだ」
「それが、俺にも良く分からん」
「お前でも、白旗を揚げることがあるんだな」
「何だ、その言い方は」
「だって、そうだろう。
学生の時から、分からんって言葉をお前から聞いた記憶はないらからな」
「あ〜、分かった、分かった。
ところで、斉藤先生のカウンセリングは」
「今日は、無理のようだが、明日からなんとかスケジューリングするようだ」
「ありがとう、恩に着るよ」
「まぁ、今回は俺も興味ある事例だが、俺より斉藤君の方が、彼女も話しやすいだろうからな。
斉藤君からのカウンセリングのカルテを楽しみにすることにするよ」
「すまんな」
「いいよ、気にすんな。
じや、またな。
何か進展があったら、また電話するよ。
ただ、この一件が終わったら、じっくりと話してくれよな」
「あぁ、分かってるよ。
じぁ、またな」
二人は供に、受話器を置き軽いため息をついた。
友田は、先程の洋子との様子や診察結果をカルテに打ち込んだ。




