1-2 淳一の日常と初体験
今日も今日とて、篠田洋子の弟、篠田淳一は、大学の授業をサボって自宅の二階の自室で何やらしていた。
その朝、母の篠田礼子から、
「学校は? ……」と、
小言を右から左へ流しながら、そそくさと朝食を食べて、
二階の自室に上がって行ったのであった。
淳一は、大学院生で化学専攻であるが、もっぱら最近は専攻科目よりも心理学、宗教、哲学、歴史の本を愛読していた。
そして相変わらず、思い付くままに、色々な本をアッチをかじり、コッチをかじりしていた。
特に近頃は、インド哲学に興味をもち、その流れでヨガや瞑想に凝っていた。
淳一は、我流でヨガや瞑想をやってはいるが、格好ばかりで、少しは上達しているのか悩んでいる時期でもあった。
そんなおり、ふとしたことから、淳一は、
マインドフルネス瞑想 や
自立訓練法
というのを知り、まずはその習得を目指すことにした。
朝食後、しばらくして、淳一はヨガのポーズをいくつか行い、身体をならしてから、マインドフルネス瞑想を行い、自立訓練法に入っていった。
どちらも、座っていても、横になっていても出来るが、その日は仰向けになってしていた。
床に仰向けになり、ヨガのながれから、ヨガのしかばねのポーズと言う、床にだらんと仰向けになるポーズを試みて、マインドフルネス瞑想から自律訓練法に入っていった。
マインドフルネス瞑想では、
いつものごとく、
彼女のこと、
大学のこと、
母の小言のこと、
食べたい物などの雑念が、
次から次へと浮かんでは消え、
浮かんでは消えて、
中断されて、
その都度そこからまたやり直していた。
淳一は、それから、自律訓練法をしばらく続けるうちに、眠くなったせいかボーッとして、まるで水中を浮遊しているような感覚にとらわれていることに気づいた。
淳一は、その浮遊感覚が気持ちよくて、
まどろんで身を任せていた。
そのうちに、自分がどこかのビルの屋上にいるのに気付いた。
淳一には、そこから、向かい側のビルの屋上の扉が開き、姉の洋子がフラフラしながら屋上をこちらの方へ歩いてきたのが見えた。
姉の様子を見ていると、ショルダーバックをおろし、安全対策のフェンスを乗り越えて、突然、ビルの端から飛び降りてしまったのを淳一は目撃した。
「あっー」っと淳一は思わず叫んだ。
淳一は、びっくりして飛び起きようとしたが、体がまったく動かない。
手を動かそうとしたが、指一本も動かない。
お腹も胸も鉄のように硬くなっていて、びくともしない、息を吸うことさえも吐くことさえ出来ない、呼吸が全くできない、状態であった。
その時、
"息ができない、苦しい、このままでは死ぬ"と、淳一は思いながら、焦ったが……、
だんだんと意識が薄れていき、結局淳一は、そのまま意識が無くなってしまった。
しばはらくして、
気がついて、目が覚めた。
どうやら、淳一はあのまま眠ってしまったようだ。
淳一は、ゆっくりと体を起こし、今見た夢か何かを思い返した。
それは夢にしては、非常に臨場感があり、まるで自分がその場に本当にいて見ているような感じであったと淳一は思った。
そして、淳一はいやな夢を見たものだと、思うことにした。
淳一は、時計を見るともう昼前になっており、空腹を感じて、昼食を食べに下へ降りることにした。
ダイニングキッチンに入って行くと、母の礼子は昼食に淳一の好きなホットケーキを焼いていた。
淳一は、いつもの椅子に腰掛け、ボーッと座って待っていると、
ダイニングテーブルには二人分のホットケーキが準備され、小皿にバター、ラズベリージャム、メイプルシロップ、大きめのミルクピッチャーも用意された。
ただし、飲み物は、礼子の好すきな紅茶のアールグレイであり、その香りが部屋中に立ち込めていた。
礼子は、アールグレイを淳一にも注ぐと、
その香りで淳一は、渋い顔をし、
「また、母さんの好きなアールグレイかぁ」
「そう文句を言いなさんな、その代わり淳一の好きなホットケーキなんだから」と、母礼子は淳一の様子を見ながら返した。
礼子は、続けて、
「これでも今日は、セント・ジョーンズ・ワートにしようと思ったけどね。
淳一も飲むんだから、アールグレイにしたのよ」
どうやら、やはり淳一はあのまま眠ってしまい、まだ、覚めやらずのようで、まだボーっとしている。
「そのセント・ジョーンズなんたらって何!」
「うーん、ハーブティーで、更年期障害や抗うつ剤、抗不安なんかの効能があるって言うお茶だよ。
薬効はちょっとあやしいけどね。」
「ふん、更年期障害? 僕には関係ないね。
でも、この鼻がひん曲がりそうなアールグレイの匂いは何とかならないの!」
「まだまだ、偉そうなこと言っても、お子ちゃまねー。
今日は、いつもより香りがたつように入れたからねぇー。
それだけ文句が言えるなら、もう大丈夫かな。
そこにミルクピッチャーがあるから、ミルクを好きなだけ入れたら。
どうせ、そのままじゃ飲めないんでしょ」
「文句なんか、言ってないよ。」
母礼子は、淳一の言い草に少し安心して、
「何言ってるの。
上から降りて来て椅子に座っている時は、まるで死人でも見たかような真っ青な顔して、心ここにあらずだったじゃない。
それが、アールグレイの香りでいつものように、多少しゃんとしてきたみたいね」
「あっ、そうだ。母さん実は」
「ちょっと、ちょっと、待って。
なんだかその話を聞くと、せっかくお昼が台無しにになりそう。
まずはお昼を食べて、その後にしましょうよ。」
「うん、分かった」
二人で、礼子手作りの昼食を食べ始めると、
「このラズベリージャム美味しいねー。
母さん、あんまり甘くなくて丁度いいや。」
「そうでしょうー。
母さん頑張って作ったんだ。
市販のジャムはみんな甘すぎるからねー」
礼子は、いつもの様子に戻った淳一と手作りのジャムを息子に褒められて、ニコニコしながら楽しい時を過ごした。
ラズベリーをどこで買って来て、どうやってジャムを作ったかを二人で話しているうちに、昼食は終わった。
淳一が、食べ終わった食器を片付けているうちに、礼子は二人分のコーヒーを準備した。