客電が落ちる前に。
午後三時三十二分――。
地図アプリを頼りに、駅から歩く。
繁華街を抜け、案内に従って暗渠を踏んでいくと、ようやくアイコンが目的地の前に到着した。十五分ほどの移動にも関わらず、ふくらはぎに軽く引きつったような感覚がある。普段の運動不足というよりは、加齢と増えた体重の影響を強く感じ、思わずため息を吐いた。
老いていく。
どこにいても、なにをしていても。
雑居ビルの前に立ち、ブラインドのかかった窓を下から順に見ていく。それから、塗装があちこち剥げた表札の五階部分に『環境再生保全調査機構』の名があることを確認して、足を踏み入れた。
「先方はもう見えてますよ、石田さん」
黴の生えたエレベーターから解放されると、薄暗いオフィスからそんな声が投げかけられた。視線を向けると、体格のいい男がこちらに笑みを浮かべている。赤瀬悠人。知った顔だ。
「赤瀬は初仕事か。あんまり緊張するなよ」
「ええ。これが終わったらまた呑みに連れて行ってください」
雑談を交わしながら無人の机と沈黙しているPCの間を通り抜け、奥のドアをノックした。
「遅れて申し訳ない。石田です」
名乗りながら、先客を伺う。
――少女が、そこにいた。
まだ二十歳にも満たないだろう、と石田はあたりをつける。自分とほとんど倍近く違うのではないか。
無論、小娘だからと侮る気持ちは全くない。
大きめのウェリントン型の眼鏡のせいか、真一文字に引き結ばれた唇のせいか、端正な顔立ちの少女には不相応な迫力のようなものがあった。
「“鳥籠”の……失礼、“取締及び管理局”の方たちですね」
硬い声と視線が石田に向けられた。警戒の色を隠せていない。そして、その緊張が解かれることは最後までないだろう。
そうと分かっていて、石田は柔らかな笑みを浮かべた。一時的な協力関係において、過度な敵対ほど無駄なことはない。彼が年を経て学んだことのひとつだ。ゆっくりと意識して話す。
「いいんですよ、好きに呼んでください。こっちの強面は赤瀬です。新人でして、研修も兼ねて同席させて頂きます。気になるとは思いますが、勘弁してください」
シュシュでまとめられた長い髪をわずかに揺らし、少女は赤瀬を臆することなく一瞥した。
「構いません。それよりも、依頼内容ですが」
「とあるものを紛失した、とは聞いていますが、それ以上はなにも」
そうですか、と少女はわずかに逡巡したように見えた。
実は、と口を開く。
「……紛失ではなく、“盗難”なのです。実行犯はすでに割れていますが――」
「え、ちょっと待ってください」
そう声を上げたのは、赤瀬だった。
「だったら、そちら側の内部の問題でしょう。それが、どうしてうちが協力することになるんですか――」
「赤瀬」
咎められるところは咎めろ、我々は決して隷属してはならない――という研修の教えを赤瀬は忠実に実行したに過ぎないと分かっていたが、石田は強く牽制した。
そこまでの駆け引きは必要ない。それに、まだ彼女の話は終わっていないのだ。
石田にはある予感があった。
「……それが“プロンプター”に渡ったというわけですね」
「はい」
「そちらで管理していて、“プロンプター”が欲しがりそうなものといえば……“鱗”かな」
「その通りです。事態は一刻を争います。……あるいは、すでに手遅れかもしれませんが」
「では、急がないと」
結局一度も座らないまま、石田はドアに手をかける。戸惑っている様子の赤瀬に、「車を借りるように」と命じる。スマートフォンを懐から取り出し、通話アプリを開きながら少女に問うた。
「そのプロンプターの名前は分かっていますか」
はい、と少女は変わらぬ声で答える。す、と息を軽く吸う音のあとに、その名前がこぼれ落ちる。
「――萩原朔太という男です」




