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エクリ・チュールは止まらない  作者: 金子ふみよ
第一章
9/71

エクリ・チュールは通訳する

 大学からさほど距離のない河口にコンベンションセンターがある。フェリーの発着船場がすぐ近くにあり、晴天であれば、水平線に六〇キロほど離れた島がうっすらとみることができた。

 円形の白色の施設で、音楽や舞台劇などが催され、大小に応じた会議室まである。その日の夕方から、サ州からの使節団を迎えることになっていた。当地の歴史・風土・地理・民話などをまとめた書籍が――それこそ歴史的にみて千年ほど前にその作業がされたとの資料があり、これまでまったく見つからなかったのだ――発見されたので、その情報の提供と研究解析の手続きを正式に決定する話し合いがサ州の管理委員会と情報文化庁との間で催されるのである。話し合いとはいうもののすでに根回しはすんでおり、互いに齟齬がないよう書面に署名する式典じみた催し物である。

 イツヅ指導担当教官の研究室の学生たちがそこに絡んでいるのは、単にエクリが情報文化庁に就職希望でそこに研修をしているということではなく、イツヅ担当官の専攻と研究成果、研究室の学生の研究テーマが情報文化庁の関心事となり打診があったのだ。ましてや、エクリにとってはこの調印式でさえも研究室の作業であると同時に、研修でもあるので欠席することなどできるはずもなく、研究生それぞれに割り当てられた役割をこなすことに汗を流すことになった。

 調印は万感の拍手に包まれ、記念交流会という名のパーティ、あるいは飲み会状態となった。とはいえ、そこはシンシ州とサ州との正式な場である。司会によって、組まれていたプログラムが進行する。舞台上では歌手による一曲や踊り、ハロルがフィアンやフィエとともに芸能演舞を披露する演目もあった。

エクリと言えば、

「あのー、エクリ・チュールさん。なんと言っていたんですか?」

 参加したどこの誰とも知らないが、先方は自分を知っているらしい中年の男性から額に汗をしてそう尋ねられた。施設や会の正式のスタッフではなく、あくまで補助手伝いレベルの一学生が頼られてしまった。研修とはいえ情報文化庁に出入りをしていると言われてしまえばそれまでだが、辛酸をなめる級の要求でもない。慌ただしい中をぬぐって、聞かされてない業務に従事する。

「えっと。『遠くから来て、勝手がよく分からない』う~んと『いな、……地方の出の者だから、失礼があるかもしれませんが、気を立てないでもらえるとうれしい』みたいな感じですかね」

 その男性の真ん前には高齢で杖をつき、背中が丸まっているせいか身長が低く見える男性がいた。キョトンとした目つきでいた。

「そうですか。こちらこそよろしくお願いします。お料理がお口に合うかしれませんが、堪能してください。とお伝えしてください」

 返答はエクリにおまかせらしく、言うことだけ言ってほっとしたのか、汗をぬぐったハンカチをスラックスにしまった。

「アネサン、ナンツウトッテ」

「あ、はい」

 高齢の男性に催促され、中年が言ったことを告げる。料理のことを言うくらいだから主催者とか関係の深い人だろうかなと、エクリは頭の片隅で考えていたが、それよりも話しを通じ合わせなければならないことの方が優先であった。どうやら通じたようだ。先方がニンマリとエクリを見上げた。高齢の男性は軽く会釈をして、別のテーブルの方に行ってしまった。

「向こうの人は発音や抑揚が違うからなあ」

 中年はまたしてもスラックスからハンカチを取り出して、汗を拭いた。

「でも、分かりやすかったよ。エクリ・チュールさん。いくら記号器といえども、翻訳だけは伝わらないんだよな。まったくもってなぜだか知れないけれど。ほら、あっちにも手伝ってあげて。たぶん言葉がうまく通じなくて困っているだろうから」

 催促され、その男性はもう他の参加者と談笑し始めてしまった。任されて無視するわけにもいかないので、促されたテーブルに歩んだ。

「なんとおっしゃっているのか、分かりますか?」

 この施設のスタッフなのだろう、グラスを乗せたトレーを手にしたまま、うろたえていた。

「はい。えっと『ちょっと味が』……うーんと『味が濃くてもたれるようなのが多いから』、『私のような年齢の者でも食べられそうなものはないか?』みたいな感じです」

 訴えていたのはやはり白髪の高齢で頑迷というかこだわりが強そうな感じの人だった。口調からもそれが感じられた。

「はい。それでしたら、こちらの方に……。ありがとうございます」

 スタッフはその人を招いて別のテーブルに行ってしまった。去り際、エクリに軽く会釈をして。

「私、通訳しに来たんじゃないんだけど」

 凝っているわけでもないが、ストレッチをするわけにもいかないので、頭を軽く左右に倒して首を伸ばした。

「あ、いた。エクリ! ハロルが呼んでる。ちょっと協力してくれないかって」

 演舞の着替え中なのか、上半身衣装、下半身ジャージ姿でフィアンがエクリの下に走ってきた。エクリは、芸能は好きだ。それを知っているハロルも好ましく思ってくれている。ただ、エクリにはセンスがなく、大根役者との自覚があった。ハロルはそこまでではないとは言ってくれたが。

「でも、私……」

「担当官もそうしろって」

「もう! 私は何でも屋じゃないって!」

 憤慨しても仕方なかった。非常時なのだから、やり通さなければならない。この式典が失敗だったとされてはたまったものではない。なんといっても研修でもあるのだ。フィアンに続いて舞台脇へ向かった。


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