エクリ・チュールは発表する②
一時間と三十分が過ぎた。ちょうど区切りがついたので、司会のイツヅ担当官が少し硬い表情で休憩をはさむと言った。
教壇に水差しが置かれていたとはいえ、始める前に動機を抑えるために一口飲んだきりで、コップを口に運ぶタイミングを損じて、エクリは喉が渇いていた。もとより発表に熱が入っていたということもある。情報文化庁の事業にかかわっている以上、とちってしまったら、やり直しか、別の学生に移譲するか、そんなことをすればどっちにしろ現段階での結果としては失敗となる。業務上はそうである。それ以上に、わざわざ時化の高い海を越えてご足労いただいたサ州の方々をがっかりさせるのは忍びない。それが動悸を早め、平熱以上の熱を体内に沸かせたのだ。ちゃんと話さないといけない、その一途でエクリはこの時間を駆けたのである。
「エクリ、外に出ろ」
まじまじとイツヅ担当官に言われた。親指だけ立てて廊下の方を指している。エクリは一般的に言う素行の悪い方々に絡まれたことがない。だが、幼少からの学校生活において聞いてきた状況が今完全に合致している。相手は教員である。一学生を恐喝するようなことはしない人だと思っていたのに、ここに至って迫る理由が見つからない。
「休憩だっつってんだろ」
エクリの頬を両手で挟んで教室を見せる。あのマーマルーヤ氏が一人座っているだけで、他の聴衆がいない室内にようやく気付いた。
「そんなに私の説明駄目でした? みなさんもう帰路につかれて」
「だから! 休憩だっつうの!」
肩の端をガシッと握られて教室から引っ張り出された。廊下には聴衆の何人かがいた。張り出されているポスターや何かの告知やらを眺めていた。
「エクリ!」
足を止めぼうっとそれらを見ていると、やはりイツヅ担当官に引っ張られた。ロビーには人がごった返していた。購買店の前にエクリを立たせ、数分でイツヅ担当官は戻ってきた。
「ほら」
「冷たっ。今、冬ですよ。おごるならあったかいものを」
「これ以上のぼせさせてどうする」
イツヅ担当官はアルコール分のないビアの缶を開けて、先を歩きながら飲んでいる。エクリはいただいた野菜ジュースの缶を開けた。
「私がトマトとセロリのジュース嫌いなの知ってるのに」
幸いそのジュースにはリンゴも含まれていたので甘味でごまかせるのだろう。仕方なく飲みながらイツヅ担当官に追いつく。
教室までの途中で簡易ソファに座るので、習って座るしかなかった。
「落ち着いたか?」
「はい? 落ち着いてますよ、私」
「全然違う」
イツヅ担当官にしては珍しく発言が論理的でなく、どちらかと言えば、言いたいことはあるのにどう言っていいか分からないので感情的な一言でまとめてしまっている、そんな感じだった。
「そう言われても。どっか間違ってましたか? 担当官に指導いただいた表現にかなり近いと思いますが」
エクリのレポートについてその修正を何度なく指導してきたイツヅ担当官が、そのようにいたたまれないような感じになっているのは、その点でもあった。表現は今エクリが言ったようにきちんとした報告書の体になっている。決して、詩編ではない。これは指導担当教官として喜ばしいことである。指導した学生が教育上成長したのである。これは教員としてはやりがいを感じる点である。しかし、その歓喜に酔いしれたいのに、そうはできないのが今のイツヅ教官なのだ。
「ああ。間違ってはない。間違ってないから」
途中で睨まれるエクリは、なおのことなぜ睨まれなければならないのか不明である。しかも、その原因が落ち着きを失しているとみられている点である。
「君のことだから、こんなことは考えてないだろうな」
今度は遠い目をする。こんな担当官をエクリは見た事がない。まるで記号器に保存しておいた大量の資料が不具合によって消去されてしまったとの表示を見て、なんのことなのか頭がついてこない時のような表情である。
「私が何を考えてないんですか?」
またしても睨まれた。いや睨まれたというよりも、光線を発するような目で見られた。
「情報文化庁が希望就職先だからって、良い子ちゃんを演じようと思ってる、わけはないよな」
「そんなこと……あ、そうか。忘れてた。良い子ちゃんにならないと」
学生生活から希望する勤務に就けるかどうかの重要な発表である。そのことさえエクリは失念していた。逆を言えば、純粋に自分の研究をまとめあげようとした純粋な思いだったともいえる。言えるのだが、まさかその根本さえも失念しているとは思ってもおらず、イツヅ担当官でなくても、そのエクリのセリフを聞けば、頭を抱えるであろう。自覚という言葉の意味をここで教授しなければならなくなるとは。
「情報文化庁に提出した私の推薦書。二回書き直したんだ。分かるか、エクリ・チュール。この私が二回も書き直したんだ。だから、君は必ず情報文化庁に就職するんだ、良いな」
「それは希望ですから、かなえたいです。とはいっても、そこにしくっても、文化祭は学生の資質をはかるためにあって、希望先から蹴られても他から声がかかることもあるように、制度化したからこの時期に実施するようになって」
「私が二回書き直したんだ、他の勤務先でいいなんて妥協を私が許すと思うか」
指を二本立てて、形状的にはVサインを作っているが、決して陽気な気分ではないだろう。あくまで強調したいのだ。下手をしたらそのまま目つぶしまでされかねない。
「分かりました。だから、後半はなおのこと全力でしゃべり倒します」
決意を新たにしてソファから立つ。その宣言を担当官はたくましく思う、普通ならそうだろう。けれど、イツヅ担当官は今は違っていた。
「全力じゃなくていい」
「はい? でもそれじゃあ」
就職希望先を反故にさせようと言うわけではあるまい。
「最善を尽くせば、それだけでいい」
「いやそれって全力ってことじゃないんですか」
「違う。そう、その話しだった」
「もう何の話になってるんだか」
「発表だ。エクリが今就職先に媚びへつらっていないなら、それでいい。先ほどはああは言ったが、とちったらその時だ。今はそこじゃない」
「はあ」
そんなことは言ってくれているが、就職先が情報文化庁に決まらなかったらきっと怒られる。
「らしくない」
「はい?」
「君は誰だ!」
いきなり指を指された。哲学的な答えをしたらいいのかと迷っていると、
「君はラングゥか? フィアン・シニ、フィエ・シニ、あるいはハロルか? それとも他の学生か?」
矢継ぎ早に問われた。これはどちらかといえば出席確認に近い。それならば、答えやすい。自同律を明言する。
「いえ、私はエクリ・チュール本人です。他の人が化けてませんし、これまでもこれからも私は私です。サ州では貉が化けられるそうですが」
「それなら! あの発表は君らしい発表ではないだろう!」
「はい? 私らしい発表じゃない? それはそうしなければならないからであって、マズイんですか?」
「自覚ないなら言ってやろう。君が何年先、何十年か先この発表会を思い起こして、前半のような発表で、その時の君はこの発表をにこやかに思い出せるか?」
言われてハッとした。イツヅ指導担当教官はこのことを言いたかったのだと、今になってエクリは自覚できた。これは州行政の一環である。使節団の接待をした。渡航に携わった。行程を歩んだ。調査をし、報告書を作成した。一方で、これは学生生活の集大成である。エクリ・チュールという人間が学んだこと、考えていること、表現力、要約力などなどが如実に顕在化される。ということは、エクリ・チュールが醸し出されるような時間でなければ意味がないのだ。それは、休憩に入る前、それまでしゃべることばかりに注意が注がれていたが、ふと教室内の顔、顔、顔が見えた瞬間に、砂利を噛んだように体内で生じた感覚が言葉になった瞬間でもあった。
――コノハッピョウノシカタデイイノカナ
それを今間接的にではあるが、あらわにさせられた。逆を言えば、前半のような発表でなくてもよいとお墨付きを頂いた証左でもある。エクリは、体の中にそれまでのほてりとは違う衝動が湧きあがるのを感じだ。それは情熱と呼べば合致するだろう。それはエクリの表情を朗らかにさせ、それを見たイツヅ担当官は安堵の息を吐いた。腕時計を目の前に出した。
「お、そろそろだな。行こうか、エクリ・チュール」
「はい!」
発表後半が始まった。