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エクリ・チュールは止まらない  作者: 金子ふみよ
第一章
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エクリ・チュールは教官室に入る

 エクリ・チュールが指導担当教官室の前に着いたのは、指定時間の本当に数秒前だった。銃口が待ち構えているようにさえ感じられる白いドアをノックすると、けだるそうな声が入室を促してきた。さすがにタオルを取り出した。額と首周りの汗を拭き、

「エクリ・チュール。間に合いました」

 快活な声を出して入った。後ろ手にドアを閉めてから、薄緑色のショートボブの髪を手の平で撫でた。

「身なりなら入室前に整えるものだ、エクリ・チュール」

 涼やかな室内らしくない、書籍の積まれている自席から重そうな視線を向けてくる。大きな黒目は形状の柔らかさとは遠く、鋭い光がある。長い黒髪をかき上げて、

「それにだ」

 色黒の肌と長身、それに色っぽさを隠そうとしない身なりには、近づいてくると圧倒感がある。そればかりではない。いつもならけだるい、くらいで済ませていた、女性としては低めの声には明らかに苛立ちが頭も尻も隠していなかった。

「私の所に来るのに遅刻が許されると思っているわけはなかろう?」

 イツヅ担当教官の半目は、これ以上の機嫌を損ねさせてはいけないとエクリに警告をしていた。

「分かってます。ですので、若き乙女が汗だくなのです」

 こめかみを伝った汗が疾走のせいか、イツヅ担当教官への返答をどううまくするか思案したせいかしれないが、

「君という学生は」

 エクリの切り返しにイツヅ指導教官は苦笑して頭を掻いた。幾分機嫌の悪さが換気されたようで、エクリの心拍数はようやく落ち着くことができる。

「で、なぜ呼び出されたかは、分かるのか? 乙女さん」

 自席に再び腰を落とし、ストールを肩に羽織り直し、足を組んだ。そんなことをしなくてもエクリがイツヅ指導担当教官に威厳を感じないわけではないのだが、それはもはや癖だろう、特定の感情の時の。

「今の研修のこと……です……か?」

 エクリが音節を進めるにつれて、イツヅ担当官の眉間にしわが深くなっていく。

「研修の何のことかは分かっているのかな? エクリ・チュール」

 終助詞が柔らかくなっているのに、語気は荒々しささえある。再度、疾走を始める。エクリ本人がではない、心拍数が、である。

「ええっと……」

 天井の隅に視線を送っても、何かが書かれているわけでも、妖精が内密に知らせてくれるわけでもない。

「これだ!」

 三十秒待とうが、十分待とうが、エクリからは出てきそうにない。いや、出てくるのかもしれないが、どれを出そうかと思案しているような表情にじれたのである。教員はご機嫌斜めを採掘した結果となっているが、エクリは決して成績が悪いとか、作業効率が悪いとか、指示に対する理解力が足りないとか、そういうわけではない。わけではないのだが、

「何度も言っているだろう! 報告書というのは詩編ではないのだ!」

 イツヅ担当官がかざしたのは、エクリが研修先に提出した報告書だった。そう、エクリ・チュールはまとまった文章を書く段になると、それが詩のようになってしまうのだ。講義のレポートから始まり、再三再四、講師・教授方々や担当官から訂正が促されてもこうなのだ。ちなみに彼女の成績がだからといって低評価をつけられないのが、教員陣の頭を悩ませ、指導担当教官の頭痛の種となったのだ。ちなみに文章表現の講義は最高評価であった。

「あれ~、ダメですか? 気を付けたんだけどな」

 イツヅ担当官から報告書を恐る恐るもぎ取って、紙上に目を動かす。自身としては、大学入学後、もうすでに三年半も気を付けた成果としては、これ以上はないくらいに上出来だとの自負があった。それがこの反応というのは、

「理不尽ですね。なんか」

「理不尽なのはエクリ、君に対する評価の方だ。『優良をつけたいのだが、どうしたらよいか』というのが先方の、情報文化庁側からの連絡だ」

 情報文化庁。州官庁の一つで、芸術、芸能、文化の保全や調査、各種媒体の許認可や行政指導、情報の送受信・流通などを所管し、他の庁の文書管理や文章指導も行っている。エクリは古書の取り扱いにかかわる部署で雑用をしていた。

 シンシ州の大学では就職活動というものが一般的ではない。大学は学ぶ機関であり、就職のために肩書を取得する関所ではないのである。とはいえ、制度がないわけではない。それが研修である。夏に入る頃から行われているそれは、実地研修と職場体験をないまぜにした制度で、優先すべきは大学の講義や行事で、長時間費やすというわけでもなかった。学生の希望職場によっては大学が休校になる休日や祝日に研修を実施するところもある。それに、これは必ずしも必修科目ではない。あくまで学生個人と就職希望先、そして指導担当教官との間で決定することである。だから、特定の場所・官庁・企業・研究所などがそれに該当するとは限らない。現にエクリと同じ研究室の中には、懸賞論文の執筆がそれに当てはまる学生もいる。

 業務が終われば報告書をまとめなければならない。雑用でも研修でも。その義務を遂行し、提出したら現状に至ったのである。

「優良でいいんじゃないですか?」

 研修先の担当者がそう言っているのだから、それに同意しただけなのだが、頭を掻いていた手を止めて、イツヅ担当官が重々しい視線を投げてくるから、

「調子乗りました」

 わざとらしくない程度に頭を下げておいた。

「エクリ、情報文化庁の文書官を目指しているのだろう? 文書官に必要なことはなんだと思う?」

「文書の簡潔さですか?」

「では、エクリ。書いたそれはどうだろうか?」

 紙上に視線を落とした。矢よりも鋭利な目に促されたので、逆らえるわけがない。

「簡潔では……ないですか?」

「だったら、呼び出しはせん。書き直しはいい。向こうがそう言っている。ただ、今後はより注意することだ」

「はい……」

「それと」

 要件はこれだけではなかったのだ。エクリには指導担当教官から喫緊に指導される案件は他に思い浮かばない。エクリに思い当たらなくとも、呼び出されている以上、何かあるのだ。

「文化祭、どうするんだ?」

 あった。確かに彼女が取り組まなければならない事案である。

 エクリたちの大学では年明けに文化祭を行う。文化祭と言っても出店やお化け屋敷なんかをするわけではない。

「まだ何をするか決まってません。でも、それならハロルだって」

 個々人または数名での研究発表がエクリたちの文化祭である。音楽、舞台芸術、演舞、舞踏、何かしらの調査の結果発表、論文の提出、教室での模擬講義などなどが行われるのである。主体は四年生で、三年生以下は実務や四年生への協力などを行うのだ。当然そのための研究主題を設定しなければならないのだが、イツヅ担当官の研究室で、ハロルという女子学生もまだ決まっていなかった。

「ハロルは研究の方向性は決まっている。ただ資料が少なく、探している」

「それはそうですけど……なんでもありません」

 イツヅ担当官の眼光を前にして反論なぞできようもない。

「それでだ、エクリ・チュール。今回の報告書の件と文化祭の未決定の反省として、君に指令がある。第五書庫の整理をしてくれ。情報文化庁にはもう連絡してある。五日間は来なくていいとのことだ」

「そんな! いきなり」

「一万冊を整理してたら、さすがに発表の課題を見つけられるだろうし、数多くの文献に触れれ ば文章の清廉さを学ぶこともできるだろう。どうだ、君のためには良い案だとは思わないか?」

 蔵書数が、まさに文字通り本当にごまんとある。第一から第四書庫はすでに点検済みだったのは幸いだった。下手をしたらそこから始めなければならなかったかもしれない。そうなればごまんなんてレベルではない。

「いや、無理ですよ」

「あそこはまだ少ない方だ。できるところまででいい」

 司書室にはすでに連絡済だと言う。数にこそこたえるが、そういう作業が嫌いというわけではないし、課題を早く見つけるに越したことはないというのは、担当官に一理どころか、正論である。いくつか研究課題の素案を並べてみたが、すでに数にして十数案却下されている。となれば、書庫整理によって視野が広がるというのも、あながち徒労にはならない、はず。

 一礼をしてから担当教官室を出た。

「ま、いいか。やらないと終わらないし」

 再び快活に気合を入れてから、スキップするような足取りで階段を下りて行った。


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