疑惑
話を深く掘り下げながら彼女の話した内容を頭の中で整理していく。
『啓明の子』が監視カメラを自治会に無償提供したのは、街の治安を守るためではなく俊輔達の意識がそちらに向かわせ真の目的から注意を逸らすための思考誘導のため。
そして『啓明の子』がこのようなカバーストーリーを用意したのは、不都合な事実を子供らから覆い隠し、集積素子から発信される特定の周波数帯を頼りに居場所を逐一モニターしていることを悟られないようにするためなのだと彼女は強く主張した。
「『啓明の子』の子供たちにプライバシーなどはないのよ。だって施設にとって私たちはただのペットみたいな存在なのだから」
「そんな証拠どこにもないじゃありませんか」
思わず語気を荒げそうになったところを俊輔は理性で抑え、努めて冷静に言い返した。
俊輔にとって施設はただ1つの帰るべきホームであり、施設長は母親。職員らは兄や姉同然の存在だ。親と言う存在を知らぬ俊輔は物心がついたころには既に『啓明の子』にいて、これまで大勢に囲まれて過ごしてきた。
いくら憧れの人である甲斐田由紀であっても自分を育ててくれた大恩のある施設へ根も葉もない噂を立てられては険のある物言いになってしまうのも無理からぬ話である。
「証拠は……そうね。シュンの言う通り物的証拠は無い。だからこれまで誰にも話せなかったの。どうせ信じてもらえないだろうし、職員にこのことがバレたりしたらどんな目に遭うのか分からなかったから……」
「どうして俺に?」
「私がシュンにこの話をしたのはあなたの腕を見込んでるからよ。つまりシュンにここを、『啓明の子』をハックして欲しいの」
俊輔は自分はいったい何を聞かされているのだろかと一瞬、自分の耳を疑い懊悩した。言葉を言葉として正しく認識できている自信が無かったのだ。反芻して彼女の意図するところを理解しようと試みてみたがやはりできなかった。だが返す言葉だけは既に決まっている。
「俺には……ここを裏切るような真似はできません」
俊輔は黒曜石みたいに煌めく彼女の虹彩を真っ正面から見据えた。暗がりの中で、鋭い冴え冴えとした彼女のよく澄んだ瞳だけが淡い燐光を放っている。強い意志を感じた。
「別に第三者機関にタレコめって言ってるわけじゃないの。集積素子が身体に埋め込まれているのか。そして明日、無事に私が町の外に出て行けるかシュンに見守っていて欲しいの。あなたの兄貴分だったヨシキさんも言ってたわ。『啓明の子』は何か隠してるって。あの人がサイバースペースにダイブしてるとき、こっそり『啓明の子』のことを興味本位で調べていたことがあるの知ってた?」
ヨシキという人物の名を耳にした途端、俊輔の表情が強張った。伊藤芳樹は電子戦闘《EC》やハッキングなどの応用技術を俊輔に教えてくれた人物だ。背が高く、彼を印象付ける丸渕メガネは今は亡き彼の父親の大切な形見であった。そんな彼から薫陶を受けた俊輔は瞬く間にその才能を開花していった。言うなれば彼は俊輔の師匠筋にあたる人物と言っても過言ではない。
由紀の口から不意に彼の名前が飛び出し、さらに『啓明の子』のネットワークにダイブしていたという予想外な事実に俊輔は動揺の色を隠しきれなかった。
「一体どこでそのことを?」
「ヨシキさんがここから出て行く前に直接聞いたわ……年齢順だとヨシキさんの次にみんなを引っ張っていくのが私だから。それで多分、耳に入れておいた方がいいんじゃないかって話してくれたんだと思う」
「あのヨシキさんが、そんなことを……」
「ログが残らないよう細心の注意を払いながらセキュリティ網を掻い潜っていった先に大量のフォルダが保存されていたそうよ。でも暗号鍵までは解除することができなかったみたい。フォルダ名も何だか小難しい専門用語の羅列ばかりでほとんど意味不明って言ってたわね」
結局、何も分かずじまいだったのかと俊輔は胸を撫で下ろした。『啓明の子』が潔白であると信じているならば、胸を撫で下ろす必要はないはずだ。抱えている矛盾に蓋をして由紀の語る事実から俊輔は目を逸らそうとしていた。
「でもね。そのフォルダの中には半導体小片関連と私達の脳波データが保管されているとおぼしきフォルダをヨシキさんは見つけた。脳波データの方のフォルダ名はEEG。知っての通り、脳波のことね。しかもそれは毎日アップデートされていたらしいの」
そこまで言うと由紀は言葉を一度切った。何が言いたいのか分かるわよねと彼女の目が強く俊輔に訴えかけてくる。沈黙は時にどんな言葉よりも強く、何よりも雄弁なことを彼女はよく知っているようだった。
「半導体小片……つまり集積素子で俺らの脳波や位置情報を収集していると……」
流石。と先程からずっと深刻な顔つきだった彼女が少しだけほんの少しだけ柔和な笑みをみせてくれた。彼女の笑っている顔を久々に見た気がした。つい先程、送別会を笑顔で締め括ったはずなのに。
普段であれば彼女に褒められ有頂天になっていただろうが、とても今はそんな気分にはなれない。体感ではもう長いこと時間が経っているような気がする。
けれども彼女にこの暗がりの廊下に連れて来られてまだ数分程度しか経過していないのだ。にも関わらず悠久の時が流れているような、肌にこびり付くような緊張感が俊輔にそう錯覚させる。
先ほど彼女はこう言っていた。
”『啓明の子』の子供たちにプライバシーなどないわ。だって施設にとって私たちはただのペットみたいな存在なのだから"と
俊輔はペットという言葉の響きに全身が総毛立つのを感じた。
俺達は何かの実験に使われて、誰にも気付かれず秘密裏に廃棄処分されていくのかもしれない。展翅板にピンで止められた蝶達のように標本にされるのかもしれない。彼女の言うようにジグラードシティなんてそもそも存在しないのかもしれない。
矢継ぎ早に気狂い染みた誇大妄想が頭の中を猛スピードで横切っては立ち去っていく。その繰り返し。負の連想ゲーム。
湖に投げ込まれた小さな石は、水面に円を形作らせ静謐を乱す。投げ込まれた石は言うなれば着火剤だ。エントロピーを増大させ、乱雑・無秩序・カオスへ周囲を巻き込むための導線。
路傍に転がる石のような些細な切っ掛けが僅かな綻びを生む。綻びは違和感へと転じ、やがて猜疑心を駆り立てるための呼び水へと変化していく。
ElectroEncephaloGraphy
頭文字を取ってEEG。
他に何かないのだろうか。EEGのアルファベット3文字が並ぶことで意味する他の単語あるいは専門用語が……。仮にそれが脳波を意味する単語であったとして関連性があるとは限らない。狼狽える必要はないはずだ。他機関から送られてきたテキストデータを適当にEEGとフォルダ名を付けて保存していただけかもしれないじゃないか。自分もマシンに『ヴァイオレット』と適当に名前を付けた。それと同じ……
ーーお前はいつもネーミングが適当だな。見た目そのままじゃないか。
俊輔がマシンに『ヴァイオレット』と名付けた時、あの時に直樹が言っていたことが自分にそのまま跳ね返ってきて、刺さった。
文字通り、そのままの意味。
冷静さを欠いている。その自覚はあった。今の自分は思考を充分に巡らせることができていない。都合のいい情報だけを取捨選択し、自分の考えを正当化させようとしている。客観性が損なわれている。
先入観を補強する理由づけとなるものを血眼になって探している自分がそこにはいた。信じたいものだけを信じようとする弱い自分が。
今、自分の脳味噌は交感神経優位になりアドレナリンが過剰分泌されていると思う。もし彼女の語る内容が真実だとしたら。
それさえもデータとして記録を取られているのだと言うのだろうか。そしてそれが意味することは一体何なのだろう。そもそも目的は?
解けない謎だけが取り残されることの気持ち悪さは吐き気にも似ている。
「ねぇシュン。明日、私がここを出て行く時。何とかして『啓明の子』にハックして。お願い」