不穏
遡ること1年前。
その日は甲斐田由紀の退所日の前日だった。
『啓明の子』は18歳を迎えた当日に退所となる。施設の庇護から外れ、自らの足で今後の人生を歩まねばならない。
退所した子供らはジグラードシティにある『啓明の子』の関連企業の下で就職していくのが施設の以前からの習わしだった。
例え、その肉体にサイバネティクス手術を施されてあったとしても治安の悪い佐内町の養護施設出身の素性の分からない子供を雇いたがる企業はない。非情だが、それが子供らを取り巻く紛れもない現実であった。
「由紀さん。これまで大変お世話になりました」
2階から手摺を伝って降りてくる由紀に向かって、俊輔は極めて個人的な別れの挨拶をした。彼女は『啓明の子』で1番の年長者でみんなをまとめるリーダー的なポジションを務めていた。
艶のあるショートボブの髪に、陶磁のように白くきめ細やかな肌。スラリと伸びた長い彼女の手足はよく目立った。少女だった頃の面影がまだ色濃く残るも、凛とした佇まいを崩さすことなく今日まで貫いてきた彼女だが、20分ほど前に送別会を終えたそんな彼女の瞳にも今日ばかりは悲しみの色があるようだった。
それと同時に別れを惜しむ寂しさや悲しみとはまた別の感情も携えているように俊輔には見えた。ずっと彼女のことを視界の端で追っていたからこそ俊輔には表情の微妙なニュアンスの違いが分かった。
「ねぇシュン……『エクスマキナ』ってどんなとこだと思う?」
彼女の言わんとしていることを汲み取れずしばし返答に窮する。
「実際のところどうなんでしょうね……基準を満たしていない今の俺達にはダイブできませんから正直俺にはどんなところなのか全く分かりませんけど」
当然のことだった。サイバネティクス化したとはいえ、あくまでフルダイブが可能になるための施術しか『啓明の子』の子供達には施されていない。
人体の30.15%以上をサイバネ化した者だけが『エクスマキナ』へのフルダイブの許可が下りる。それは『啓明の子』で生活する誰もが学び得た知識だ。
神経接続プラグを接続するためには開頭手術が必要であった。
脳は人間の意思や感情、生命維持全般の司令塔としての重要な役割を担っている。
子供らに施されたサイバネティックス手術では、脆く繊細な臓器を保護するために遺伝子設計されたクモ膜や硬膜、頭蓋骨などの何層もの外殻に対しアプローチをかけていく。
マニュピレーターの先端に備えられた電動メスで皮膚弁をめくりあげ、ナノボットを使い、線形変換処理を含めた何十億種以上にも及ぶ内分泌系などの生理反応を各複雑系ユニットに落とし込ませて1つの大きな束として結合させる。
結合したユニットはやがて基礎的ニューロンネットワークを脳内に構築し、仕上げは細かに設定した疑似神経回路をバイパスして新たな経路を紡ぎ、そこにプラグを接続するためのジャックを埋め込んでいくのだ。
しかしここまでしてもなお30.15%という基準値の壁は遠い彼方の向こうにある。子供らがアーケードで優秀な成績を納めたがるのには施設を退所した後、ゲームで稼いだ金をジグラードシティにいる優秀な神経外科クリニックに突っ込んで、基準を満たす大規模な手術をこの身に施してもらうためだ。
俊輔は『エクスマキナ』にダイブできなくても良かった。佐内町の施設出身とジグラードシティで白い目で見られようとも、生活ができればそれでいい。
合成ゴムの皮膚もチタン合金の金属骨格も何も纏っていない肉体は俊輔にとっては親から授かった唯一のモノであった。身体を捨てるような真似はしたくなかった。切り傷ができれば皮膚の裂け目からは赤黒い液体が滲み出るたった1つの生身の身体を大切にしたかった。
俊輔は実の親の顔を知らない。最低限の細工しか施していないこの身体が顔も知らぬ親と自分とを繋ぐ最後の糸のように思えた。
アーケードで賞金をいくら手にしても、クリニックで高度なサイバネティクス手術を受けたくなかったのは親との繋がりさえもメスの刃先で断たれてしまうような気がしたからだ。
俊輔にはエクスマキナにダイブできる人々の肉体はどこまでが機械でどこまで人体なのだろうと思いを馳せる瞬間がある。人と機械の境目はどこにあるのだろう。
それは決まっていつも真夜中の真っ暗な部屋の中、恒温シーツの上で仰向けになって天井を見つめる時だ。ふと手を伸ばして自らの五指をまじまじと眺めた。
手は脳から出された指令を言う通りに実行する忠実な僕。機械に代替できる。では脳は、魂の所在は、ヒトの意識はどうなのだろう。
ダイブしている時のサイバースペースでの自己はフーリエ変換された、実体のないただのデータに過ぎない。
記憶が0と1の2進数のデジタル処理として吐き出され、神経接続プラグを通してサイバースペースへと飛べば有機的な人としての記憶は、体温を感じない無機質な機械の記録へと変換される。
もし現実の肉体が失われてしまい意識データつまり、記録だけがサイバースペースの中で漂うことになれば、それはもう人とは呼べないものになってしまうのではないか。俊輔は窓から差し込む月明りの中でとりとめのなことを考えるこの時間が嫌いではなかった。
マニュピレーターではない本物の、血の通った人間の手を凝視した後、目を閉じると瞼の裏に朧に浮かび上がるのはいつも夜に燦然と輝く『エクスマキナ』の景観だった。
ランページレースで再現されていた摩天楼とネオンの連なり。眠らぬ電脳都市。宝石を散りばめたような荘厳な街並み。
『エクスマキナ』は株式会社Babelのお膝元、ジグラードシティが管理している量子コンピューターサーバー内で構築された仮想空間の名前だ。
あらゆるサイバースペースの中で最も名の知れた、Babelが直接管理下に置く唯一の区格。もし下手に侵入を試みようものなら独自の侵入対抗電子システムによって闖入者の神経回路はたちまち焼き尽くされてしまう。
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「ジグラードシティって本当にあると思う?あったとしても施設の関連会社に私達本当に就職できるのかしら……」
絞り出すような震えた由紀の声には深刻さが伴っていた。冗談で言っているのではない。彼女は何かに恐れている。しかしその”何か”が見当もつかなかった。
街の様子を実際に見てきたという人の話を彼らは1度たりとも聞いたことはない。シティは外部との連絡を一切途絶し、施設サイドもいかなる手段を用いた元施設出身者との接触をかたく禁じていた。
職員からは『啓明の子』で行われている不正行為(足のつかない孤児を用いた違法賭博)の露呈を防止するためだとの説明があり、その時は確かに腑に落ちる話だと思ったが、
「どういう意味ですか?その……ジグラードシティが…」
「シッ。大きな声出さないで。気づかれるでしょ」
由紀は人差し指を口に当て俊輔の言葉を遮った。彼女は周囲を警戒するように見渡すと、俊輔を人目のつかないボイラー室の前へとひっそり連れ出した。
ボイラー室は事務室や施設長室から死角になっており、距離も離れているために聞き耳を立てられる心配をする必要はない。陽の光が差し込まぬ窓1つない薄暗いボイラー室前の廊下は肌を舐めあげるような湿気を帯びており不気味であった。
年端もいかない子供達は特にこの場所を苦手としており、別段生活する上で必要な部屋があるわけでもないために普段は誰もが近寄ろうともしない。
今にも幽霊が姿を現しそうな雰囲気のこの廊下が活躍の日の目を浴びる機会を得るのは出火元がボイラー室として指定された際の防災訓練の時くらいである。施設という名の、狭い箱庭の中で人目を避けるにはこれ以上ない場所だ。
「私達には必ず夜の8時までには必ず帰っていなくちゃいけないっていう門限があるわよね?」
憧れの女性から暗がりに連れ込まれるという状況は普段であれば男としてはこれ以上なく胸が高鳴るシチュエーションであるが、俊輔は彼女から醸し出される不穏な空気を察知していた。
早まる動悸は甘酸っぱい恋の予感によるものでなく、自分にとってネガティブとなるような事を突き付けられるのではないかという嫌な予感によるものである。
冷たい脂汗が首筋からツーと流れ、フランネル生地の黒いシャツの布地の上に落ちていく。
壁を背もたれにし由紀は腕組みしながら話を続けた。彼女は口にする言葉を慎重に選んでいるような印象を先ほどから受ける。奥歯に物が挟まったような言い方が若干もどかしい。
「ええ、門限を破ったら罰として家事を1週間ってやつですね。最近は見かけませんけど」
「門限を破った人たちは既に職員らに全て居場所がバレていたわ。子供らを犯罪から守るために『啓明の子』は町の治安維持のために自治会に高性能監視カメラを無償提供したそうよ」
「無償の代わりに『啓明の子』は自治会に提供した監視カメラを用いて俺達を監視するよう要求したと、そういうことを仰りたいのですか?でも、それは既にみんなが噂していましたよ。ポリス・オフィサーを金で抱きかかえているとはいえ、一歩間違えれば即摘発されるようなアコギな商売を俺らはやってるんですから。」
「うん、そう。施設は何らかの方法で私達のことをずっと監視している」
「いったい何のことです?」
俊輔がそう切り出すと由紀は瞼を閉じた。何かを口にしようかしまいか考えあぐねているのか。それとも口にすると何か良くないことでもあるのか。例えば彼女がこれから口にすることを聞いたことで自分の身に取り返しのつかない何かが起きるとか。
僅かな沈黙の中で考えられるあらゆる可能性が俊輔の脳裏を次々と過っていく。由紀が一呼吸置いて、閉じていた目を開けた。迷いのない真っすぐな視線を俊輔に向け、ゆっくり口を開く。
「私達の身体に、集積素子が埋め込まれているかもしれない」