啓明の子
美萩連山の狭い峡谷を抜けた先の扇状地の上に佐内町は築かれていた。小さな田舎町である佐内町は水はけのよい土地の性質上、果実の栽培が盛んであった。町の中心部には北と南を分断するように鹿野川が流れ、川と並走するように沖ノ目鉄道の沿線がはしり、途中でそれぞれが北と南、二股に枝分かれしていく。
鹿野川を跨いでアーチ状に架かった石造りの大手橋を境界とし佐内町では美萩連山の北の方角を箭内地区。戸尾湾方面の南の方角を依田地区、アーケードのある東の繁華街周辺は仁瓶地区と規定されている。
春の穏やかな午後の日差しにあてられた鹿野川の水面は細い銀糸の束となり、まるでガラス片を散らしたように陽光を反射させた鹿野川沿いの並木道には桜の木が咲き乱れ、道行く人々の目を楽しませてくれている。それらは近隣住民の間ではちょっとした春の風物詩として以前から評判になっていた。
繁華街とは反対の西の方角の道を30分ほど辿っていくとやがて住宅地から離れた小高い丘へと連なる道の途中に四方を大人の背丈以上の白い壁に囲まれた鄙びた総2階建ての洋館が見えてくる。
門柱のネームプレートには、『啓明の子』と丸文字フォントで縦書きに彫られ、プライバシーや防犯を意識したと思われる正門の門扉は来訪者を拒むかのように堅く閉ざされていた。
鉄格子の窓が並ぶ寄棟屋根の施設外観は閉塞的な印象を受け、児童養護施設というよりもむしろ収容者を決して逃さぬまいとする堅牢な刑務所といった様相を呈している。
門扉の向こう側の観音開きの施設の玄関ドアを開けるとまず目の前には突き当りの浴場まで真っすぐに伸びるL字型の廊下がある。
浴場から右に折れた先の角部屋は薄暗いボイラー室がぽつんと佇み、リノリウムの床は清掃がよく行き届いており埃1つさえ見当たらない。
玄関から入ってすぐ左手には事務室、右手に広めの食堂と共用スペース。施設長室は事務室と応接室とで隣り合っており、施設長室前の廊下を挟んだ向かい側に2階へと続く階段がある。
階段下にも小さな部屋があるがそこはスタッフ専用の物置部屋として利用されているらしく普段はシリンダー式の南京錠で固く施錠されている。
子供たちの間ではこの物置部屋は”開かずの間”と呼ばれ、様々な噂が飛び交っていた。
1階の2階の間取りは殆ど同じく、折り返しタイプの階段を取り囲むように各部屋が配置され、1階は施設職員と食堂や浴場などの生活共用スペース。2階は子供たちの居住スペースと目的に応じた運用されている。
『啓明の子』を真上から俯瞰すると恐らく4つの辺と角度が等しい正方形に近い構造の異様な建築様式となっていることが分かる。『啓明の子』は親のいない孤児たちの住む箱庭であり鳥籠であった。
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ランページレースから2日後。
俊輔は直樹のことで施設長の元に訪ねていた。あれから2日、経過しているというのに直樹は頑なに部屋から出ようとせず一切、姿を見せていない。施設の食事は食堂で決まった時間に提供されるため彼はこの2日何も口にしていないことになる。ただでさえ細い体躯で病弱な直樹のことが俊輔はずっと気掛かりだったのだ。
「直樹のことは暫くこのまま静観することにします」
オフィスチェアに座る30代後半から40代前半と思われる女性の口から思いもよらぬ言葉が飛び出し、俊輔は呆気に取られ何も反応ができなかった。
彼女のデスクの上は綺麗に整理整頓されているものの脇には書類がいくつも重なっていた。施設長という立場上、目を通さなければならない書類やサインや捺印が求められる書類などそれ以外にもやらなければならない仕事があるようだった。
肩を落とし明らかに落胆した様子の俊輔を無視するように施設長は書類に目を通しながら続ける。
「彼の様子が気になるあなたの気持ちはよく分かりますが、今は彼をそっとしておくのが賢明です。あなたには一生分からないことかもしれませんが挫折した人間が立ち直るには相応の時間が必要なんです」
「ですが直樹は食事もロクに取らず、2日も部屋にこもってるんですよ。こんなことこれまで1度もなかったんです。ドアをノックしても返事はしないし、もしかしたらっ!」
頭の中で力無く床に倒れ伏せる直樹の姿が思い浮かんでしまった俊輔は、施設長のデスクに詰め寄った。
Tシャツの裾がデスク上の端に置かれていた小物入れに擦れて落下し、中に収納されていた大量のゼムクリップが辺り一面、まばらに散らばる。自らが引き起こした目の前の惨状に俊輔は小さな声ですみませんと申し訳なさげに呟いた。
「俊輔。あなたは心の中のどこかで直樹のことを下に見ているのではないですか? 彼は以前、私にシュンから馬鹿にされ、見下されていると辛そうに漏らしていましたよ」
施設長が手にしていた文書から目線をペルシャ絨毯の上に散らばるクリップを拾い上げる俊輔に移す。その眉間には彫刻のように深い皺が寄せられていた。
頭上から降り注いでくる見咎めるような冷え冷えとした視線に耐えながら俊輔は話を続ける。
「俺はあいつのことをそんな目で見たことないですし、思ったこともありませんよ」
「あなたがそう思っていようとなかろうと直樹がそう口にした事実が覆ることはありません。以前から思ってはいましたがあなた達は互いの距離が近すぎるきらいがあります。今回の件はいい薬になったんじゃないですか。もう16歳になるんですからそろそろ適切な距離間で人付き合いができるようになってください」
「……はい」
俊輔からクリップが収納された小物入れを受け取ると施設長は深いため息をつき再び書類に目を落とす。
日々、多忙であるはずの施設長が利用者の1人に過ぎない俊輔の相手をしてくれるのは恐らく施設への貢献度が最も高いからにほかならないだろう。
アーケードでは順当に勝利を収めていけば施設に金が入ってくるような仕組みになっていた。故に俊輔は自分が勝利し続け『啓明の子』の懐に金が舞い込んでくれば、施設の設備投資に十分な予算が割り当てられるようになり、設備が整っていけばより良い暮らしや職員の給与所得も向上していくはずだと心の底から信じていた。
自分の働きが『啓明の子』への、ひいては施設長への、これまで自分を育ててきた恩返しにもなり、互いに良好な関係を築くことができるのだと。
昨年までは疑いも無く俊輔はそれを信じていた。
『啓明の子』を退所していった彼の憧れの人。
由紀の話を聞いた、昨年までは。