接触
日雇い肉体労働者の寄せ場である佐内町は、サイバネティクス手術を一切身に施していない者達が暮らす街だった。混じり気のない生来の、生身の体を有する彼らはサイバネ化のための費用を捻出することすらできない生活困窮者であり、肉体という枷を掛けられた肉の奴隷だ。
サイバースペースは肉体を必要としないもう1つの現実とみなされていた。それ故に電子の中に存在する空間に接続することすら許されていない佐内町で堕落した生活をおくる肉の奴隷達の人権は著しく損なわれている。
電脳世界にフルダイブできない彼らの大半は休日にアーケードのギャンブルに興じてアルコールに溺れるようなその日暮らしの生活をおくっていた。
アーケードでは品質の悪さを誤魔化すために合法ハーブや木の皮などの夾雑物が混ざった粗悪なビールを客に提供されていた。
挙句の果てには本来取り締まる立場にいるはずのポリス・オフィサー達はこの場に到底似つかわしくないフォーマルな装いの燕尾服を着たアーケードの支配人に金を握らせられ、違法賭博を黙認する始末。
アーケード内に屯するゴロツキ共は佐内街の中でも折り紙つきのワル共ばかり。しかしアーケードのような場所が表立って存在しているからこそ、結果として危険なドラッグなどの類が闇市場に出回ることを防ぐことに繋がるのは大昔の禁酒法時代の歴史が証明してくれている。
裏社会と何の関係もない町民が毒牙にかかるよりも必要悪としてアーケードの存在を維持しておいた方が佐内町の治安を保つことができるというのは何とも皮肉な話だ。
黒を基調としたバーカウンターでは歯のつっかけた男がジョッキに並々と注がれたビールを旨そうに啜りながら、横に座るラテックスラバースーツを着た金髪女の尻を撫でている。
放射状に照射される電子レーザーの舞いは大音量の音楽と共に宙を飛び交い、タバコのヤニで黒ずんでしまった天井から垂直に吊り下げられているトリニトロンテレビからは『ホーネット』がちょうど横にスピンし、停止してしまう場面のハイライト映像が流れていた。
居たたまれない気持ちになった直樹は映像から目を逸らし、アーケードを後にしようと出口へと足を向けるが、
「ホーネットのあんちゃん。また負けちまったなぁ」
不意に顔見知りの客が横から呼び止められ、直樹の心臓は大きく跳ねあがった。直樹に声を掛けてきたサングラスをかけた男は長身痩躯ではあるものの骨格がしっかりしており、決して華奢という訳でないことがダークブラウンのオーバーサイズスウェット越しにも見て取れる。
彼は非合法なルーズリーフタイプの噛み煙草やゲートウェイドラッグの売人で、どうやら各地を津々浦々と巡業しているらしく、半年ほど前から佐内町に逗留し始めたのだと彼が以前、顧客に語っていたところを直樹は偶然、耳にしたことがあった。
「すみません。期待を裏切ることになってしまって……」
「気にすることはねぇ。あんちゃんは充分よくやってるよ。だって相手はあのシュンだろ? 別に2番手でもいいじゃねぇか。金は結構稼げてるみてぇだしな」
「……それなりには」
「だろ? それに今度から『ヴァイオレット』に賭ければ多分、今回損した分は回収できるだろうからよ」
豪快な笑い声をあげながら男は肩をポンポンと2度叩いてきて、急に直樹の耳元に唇を寄せ、
「むしゃくしゃしてンだろ? 良いのを教えてやろうか?」
と吐息交じりに囁いてくる。
「僕はドラッグに手を出すつもりはありませんよ」
「いくら俺でも未成年相手にブツを販売したりしないぜ。俺はその辺はしっかり弁えてんだ。あんちゃんは俺のことをどうやらただのクスリ屋さんだと思っているようだが俺の本職は実はアーティストでね。《《あっち》》で絵描きをやってんだがここはナチュラルが多いだろ?だから中々、俺の作品を見てもらえる機会がなくてよ」
「作品を見ろって言うんですか? すみませんが今はそういう気分じゃないんです」
とその場を立ち去ろうと背を向けた直後だった。
「酷い事言うなぁ。ホーネットのあんちゃん」
直樹のジャックに売人が神経接続プラグを接続した。売人は直樹の肩を叩いた時には既にスウェットの袖口からプラグを引き伸ばして、接続準備に移行していたのだ。
「人がせっかくお願いしようとしてる時に、そのチープなジャックを余所様に向けるのはいったい¨親¨からどういう教育を受けてんだい。このスカベンジャーボーイ」
網膜に投影されるデータの洪水と光の潮流は例えるとするなら映像の暴力と呼ぶに相応しいものだった。
等面四面体。切頂八面体。菱形台形十二面体。黄鉄鉱型三角二十面体と次々に格子構造の形態が変化し、虹色に明滅するとスクリーンの端からそれらが隆起して複雑な幾何学模様を描きだす。
三次元ユークリッド空間内に展開される幾通りもの結晶構造パターンの瘴気。
数列の雨が直樹の自我に降り注いでいく。