持つ者と持たざる者
「勝てそうだったんだけどなぁー……」
『ヴァイオレット』のフロントディスプレイ上に映し出されている直樹は俯きながらぽつりと呟く。いつものように純粋な技量の差で負けたのではなく今回は自分の初歩的なミスが原因で勝利を逃してしまった。悔しくないわけがなかった。勝利という名の美酒を目の前で釣り得のように垂らされただけで、焦りと迷いが産まれてしまった己の心の弱さを直樹は恥じた。
「あれは土壇場で思いついた咄嗟の策だった。もしお前がスキャニングしてマルウェアの存在に気付いていたら俺が完全に負けていた」
「気を遣わなくてもいいよ。本当はこうなることも最初から全部想定していたんだろ?」
「まさか。俺は神様じゃないんだぜ。レースの行方がどうなるのかなんてそんなの誰にも分かるわけないだろ。今回は負けるんじゃないかと思った。そこに嘘偽りはない」
本当のことだった。確かに策を思いついた時、これまでの長い付き合いから彼の性格的弱点を知っていた菊池はパニックに陥りやすい彼なら自分が仕込んだトラップに引っかかってくれるかもしれないと考え、行動に移した。
絶対的な確信があったわけじゃない。悪あがきだと一笑に付され、巡回ボットに噛ませたデコイを無視されてしまうことも十分考えられた。
最後のストレートで最高速度を出していた『ホーネット』の加速制御装置をハックしたところで既に菊池の手元には手札は残されていなかった。あの時、何故マザーボードではなく加速制御装置の方をハックしたのか。そのことに彼は疑問を抱くべきだったのだ。
「どうだかな……」
力無い声で直樹は項垂れる。菊池がランペイジレースに参加しはじめて3ヶ月。まだ3ヶ月しか経過していない者に2連敗してしまったという客観的事実が彼の心境に暗い影を残した。
身体を使った競技では勝つことはできない。
だけど自分にはレースがある。
レースだけは菊池に負けたくなかった。
身を焦がすようなみっともない嫉妬心が直樹の胸の内で渦巻く。
持って生まれた先天的な才覚がある人間が少し努力をする。それだけで凡人は逆立ちしたって勝てなくなる。天は二物を与えずという言葉は嘘だ。いくら自己研鑽に励んだとしても、天才と凡人の間には埋まることのない差がそこにはある。
”持たざる者”をせせら笑うかのように横たわる絶対的な差が。
井の中の蛙だった哀れな自分。
努力に勝る天才はないという言葉を純粋に信じていた自分。
ランペイジレースの絶対王者として持て囃されていた自分。
これまで直樹は菊池の事を妬ましく思う自分の感情に気が付いていながらも目を逸らしてきた。
どうして菊池が立っているポジションがどうして自分ではないのだろう。生まれも育ちも近い彼との間に何故こんなにも差があるのか。
自らの心に巣食う劣等感という名の卑しい感情からこれまで蓋をすることができたのはレースがあったからだ。しかし心の拠り所となっていたそのランペイジレースまでもが彼のことを裏切ってゆく。
(僕にはもう何もない……)
培ってきた自尊心が音を立てて崩れていくのを感じた。
まるで両手から流体となってこぼれ落ちる砂のように。
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肌に隙間なく密着するミネヤ重工業製の機動プロテクタースーツ(レーシング仕様)から解放された選手達は控室のドアからぞろぞろと廊下に出ると端末のパネルを叩いて、ログアウトしていく。
サイバースペースにアクセスしたユーザーはこの専用端末を介さない限りログアウトはできない。正当なプロセスを経ずに強制終了してしまうと現実世界で意識が戻る際、脳に甚大な影響を及ぼしてしまう危険があった。
ビッグデータがヒトの意識へと変換されている過程において何らかの理由により《《もつれ》》が生じ、混線した状態で強制終了してしまうと、不完全なままのデータが脳へと逆流し、ユーザーの意識混濁や自我崩壊を招いてしまう。
ダイブには常にそういった危険性が伴っていた。
特殊な電磁パルス信号を脳に直接与えるというフルダイブテクノロジーは意識とデータを紐づけて互換する極めて繊細な手続きが要求される。
専用端末からマニュアルでプロトコル変換を実行し、エラーコードが表示されていないかをユーザーは目視で確認した後でログアウトしなくてはならない。
ログアウトにオートメーション機能が実装されていないのには恐らく管理運営サイドの技術的な背景とリスクヘッジ的な意味合いが含まれているのだろう。いくら技術が発達しても機械で代替できない箇所は残る。
世の中のものの大半が全て機械に置き換わってしまえば、世の中が人に与えるのは退屈な毎日だけになってしまうだろう。
「万夫不当の『ホーネット』がついに敗北。直樹の時代もこれで終わりか……」
「だから言っただろ? 俊輔はランペイジレースでも半端じゃないんだって。どんなにドラテクがあっても電子戦闘に持ち込まれりゃそれで終いさ」
「今頃ホーネットに巨額の金を賭けてた”上”のお客様は喚き散らしているだろうな。『ヴァイオレット』に賭けてりゃ配当金もたんまりだっただろうに」
選手たちの間で交わされる猥雑な話を耳にしながら武内麻子は邪魔にならないようドアの横で兄と俊輔のことを待っていた。
他人の気持ちも考慮せず勝手な憶測や噂話を本人たちの近くで平然とする選手たちのことも,自分たちの払戻金の額の大きさにしか興味の比重を置いていない観客達のことも麻子は快く思っていない。
現に立ち尽くす彼女の両拳は白くなるほど強く握られている。
「ごめん麻子ちゃん。遅くなった」
「ううん……そんなに待ってない」
ぎこちないを愛想笑いをする俊輔と能面のように無表情な直樹がようやく麻子の前に姿を見せるが、2人の間に居心地の悪い空気が流れていることに彼女はすぐに気づいた。
沈黙を貫く兄の視線は真っ白な床の1点へと注がれ、他者からの干渉を拒もうとする明確な拒絶の姿勢を見せる。
密閉された滅菌室のような空間に瘴気だけが悠然と漂う。