スラム街にて
サイバーパンクものに初挑戦!!
episode2『シグナルロスト』から徐々に話が大きく動いていきます
陽が地平線に沈み、多様な原色のネオンが蛍日のようにポツポツと灯り始めた頃。都市中心部に聳え立つジグラードタワーから南方に位置するスラム街をひた走る1人の男の影があった。何かに追われているのだろうか。鬼気迫る表情を浮かべた男の額に浮かんだ大量の汗を拭う素振りすら見せず、男はがむしゃらに何かから逃れているように見える。
複雑に入り乱れるプログラムコードによって組み上げられた仮初の肉体は現実世界の肉体と相似関係にある。そのため現実同様に身体を動かして体力を消耗すれば当然、息切れもする。物に触れればその際のデータが直接、皮膚を通して脳へと伝達され対象物の質感や輪郭が分かるように電脳世界によって与えられたボディーはそれ自体が1つの大きな感覚受容体であった。
五感レベルが現実世界と近似値にある男の肉体には無尽蔵の体力が宿るようなことはない。男はあえぐようにして酸素を肺に取り込みつつ無様に地べたを這いずり回るしかなかった。
山肌に群生した菌糸類のように天高く聳えた雑居ビル群の壁面はコンクリートともモルタルとも区別がつかず。剥き出しのままの赤錆に塗れた配管は窮屈そうにひしめきあっている。
(クソックソッ。あのアマ。俺を密告しやがったな。)
男にいつも金をせびってくる品の無い女衒の顔がチラついた。
奥歯を強く噛みしめながらも男は、追手が迫ってきていないか背後を振り返り、身の安全を確保した後で古びた水銀灯の下を通って、廃ビルの中にその身を隠すことにした。
男が転がり込むように立ち入った廃ビルは、かつてビジネスホテルとして運用されていた(エクスマキナ上の設定)ようでエントランスにはホテルマンが立つ質素なフロントカウンターがあった。
埃に塗れたカウンターの上を飛び越えた男はすぐさまデスクの暗がりに身体を押し込め、乱れる呼吸を整えることに意識を集中させる。
ちょうど体力が限界へと差し迫っていた時に、たまたま逃げ込んだ先が身を隠す場所の多い廃ホテルだったことに自分は何て運が良いのだろうと男は歓喜の笑みを頬に浮かべながら『機械仕掛けの神』に感謝した。
遠方から微かに何者かの足音が聞こえてくる。男は酸素を求めようとする口を片手で覆い、微かな音さえたてぬよう細心の注意を払う。心臓の音がまるで早鐘のように短いスパンで拍動し、額から滲み出た汗が顎先を伝って床へと滴り落ちていく。
ここに逃げ込む場面は目撃されていないはずだ。焦る必要はない。そう自分に何度も言い聞かせるが手の震えは止まらない。
捕まったら『エクスマキナ』へのアクセス権を永久的に剥奪されてしまい、仮想空間で築き上げた地位も名誉も金も全てが失われる。男にとってはこのエクスマキナこそが現実であり生きていくための寄る辺であった。
サイバネ化した現実世界の肉体では、いくらフェネチルアミン系化合物を接種してもハイになることはできない。臓器の一部分と同化した小型浄化槽が毒物と認識したものを徹底的に排除してしまうからだ。
(返り討ちにしてやる)
男は恐れを怒りに変え、己を無理やり奮い立たせた。狂暴な怒りの色を宿した三白眼は、デスクの向こう側にいるであろう追手の影を睨み付けながら行動を起こす。
男は足元に無造作に横たわる石に向かって手をかざす。彼の右掌が一瞬波打つと、皮膚の上に縦と横の線が網目状に展開された格子模様が浮かび上がった。
男の手に埋め込まれたペネトレイターから放射される不可視光線の有効範囲は5cm程度と短いが、対象物のソースコードに侵入し自由自在に書き換えを行うことができた。翳した手の先にある石は粘度細工のように柔く、そしてゆっくりと棒状の姿をした何かに形を変えていく。
足音の主はホテルの中に侵入してきた。硬いブーツの底がエントランスホールの床を鳴らし、静謐な空間に反響する。そしてその足音は迷うことなく真っすぐデスクの方に近づきつつあった。
「隠れても無駄だ。大人しく投降しろ」
淡々とした声が降伏を促す。後がなくなった男はカウンターを飛び超えながらペネトレーターで石を変換し、作り上げた長庚流六角棒手裏剣を追手に向かって逆投げに投擲する。
右手から放たれた鋼鉄の針は真空を射貫き、目にも止まらぬ速さで相対する敵の顔面を捉えた。
勝った。
男がそう確信したのも束の間、追手は頭を左に反らし、それをいとも容易く避ける。獲物を見失った棒手裏剣は硬いコンクリートの壁を穿った。
「玩具はそれで終わりか? 『グリッドメーカー』」
追手の男は夜に溶け込むような黒色をしたカワハラ重工業製全天候型特殊合成繊維ジャケットを着込んでいた。その背中にはヨタカを模したロゴデザインが刺繍されている。
ナイトホークス。
それが彼が所属している部隊の名前である。
「クソガキが。公僕ごっこがそんなに楽しいか!」
グリッドメーカーが額に青い血管を浮かばせながら掌のペネトレーターを起動。未だ微動だにもしない相手の顔面目掛けて掌底を繰り出す。
が既にそこには男の顔はなく、突き出した手は絡め取られて、ぬるりと背後に回られてしまう。その技は地面を蹴らず体の軸を前に倒し、一瞬にして相手との間合いを詰める移動術。古武術式縮地法であった。
「おまえに能力を与えたヤツのことを教えろ」
指に強烈な電流が流されたような痛みに苛まれ、ようやくグリッドメーカーは自分の指が折られてしまっていることに気がつく。
グリッドメーカーは思わず地に膝を落とす。しかしナイトホークスの男は、慈悲もなく彼の背中に膝を乗せ更に力が徐々に加えていく。関節がミシミシと嫌な音を立てて軋み始めた。
グリッドメーカーが要注意人物として広く『エクスマキナ』内で手配されていたのは彼の右手に埋め込まれている違法ペネトレーターを電子ドラッグ作成へと転用し、絵画の中にプログラムとして忍ばせ、無辜の民を次々に廃人へと追いやっていたからである。
「いでででっ。へっ。ナイトホークスも堕ちたもんだな。世間知らずの坊ちゃんにこんな危険な仕事をさせるなんて。言っとくが俺は殆ど何も知らねぇからこんなことしても無駄だぞ。いででで」
「なら知っている範囲のことを全て話せ」
グリッドメーカーの話した内容はこうだ。
彼が贔屓している五番街A区12-4の『ヴィクトリア』のカウンター席でいつものように酒を嗜んでいると、隣にこの場に相応しくないスーツ姿の男が隣に座り、突如こう話しかけてきたらしい。『あなたの才能をもっと世間に知らしめる方法を私は知っています』と。
相手は彼が画家として活動していることを既に知っているようだった。
逆にグリッドメーカーは相手の男のことを何も知らない。どういう目的で彼に近づき、話しかけてきたのか分からない。素性も知らない不審な相手からの怪しい勧誘は普段だったら軽くあしらうはずだったが。その日は飲み過ぎたせいなのかスーツ姿の男の口車にまんまと乗せられた。
創作物を褒められたことで少しいい気になり過ぎていた。目が覚めた時には身に覚えのない冷たい倉庫の床に横たわっており、いつの間にか右掌には妙なコードが埋め込まれていたと彼は愉快そうに語った。
「力を与えられて俺はこう思ったんだよ。エクスマキナ内で飲む酒は所詮は紛い物。ドーパミンの分泌量を増加させ酒に酔った時に近い状態まで持っていくことはできるがその程度でいくら飲んでも酔えやしねぇ。だがこの力を使って脳味噌にちょいと強めの刺激を自在に与えることができりゃ現実の酒よりもスゲーものができるんじゃないかってな」
「お前の作品だって紛い物だ。自分の実力で作ったものじゃない。他人から与えられた力に溺れているだけの三流だ」
「馬鹿かお前。この力は俺にとっては画筆でしかねぇんだよ。芸術的素養の無いヤツが力を使ってもゴミしか生まれないのが分からねぇのか。想像力が無いガキだな。お前に芸術は分からねぇよ」
「プログラムをバラして絵の中に忍ばせるという狡猾な手口はそいつから教わったのか?」
「いいや。それは俺が考えた。こうすりゃバレにくいだろ?俺だって芸術家の端くれだからよ。他人のアイデアを盗むなんて野暮なマネはしねぇよ」
「他人のアイデアは盗まないのを信条としているようだが、見知らぬ誰かの一生は平気で盗むんだな。お前の描いた作品のせいでどれだけの人が廃人になったと思っているんだ」
「俺の作品で誰かが狂ったのだとしたならばそれは画家冥利に尽きるというものだ。芸術家が人を熱狂せることを目的として何か都合が悪いことでもあるのか? 俺の描いた絵とコードレシピがエクスマキナ内の誰かを夢中にさせている。これ以上の幸せを俺は知らないね。客だってそれを承知の上で買ってるんだ。外部の人間がとやかくいう問題じゃねぇ」
そのとき、むき出しの暴力がグリッドメーカーに牙を剝いた。頭を掴まえられ地面に何度も叩きつけられる。何度も何度も。鈍い音が2人以外誰もいないエントランスホールを満たしていく。
彼の鼻の骨は粉砕され、鼻の穴や割れた額から大量の血が滴り落ちた。大理石の床を赤く染め上げていく。
「お前のせいで俺の友達は死んだ……お前が俺の全てを壊した」
「そりゃ御愁傷様だったなァ。でもな俺だけが悪い訳じゃねぇぞクソガキ。ドラッグに溺れるような心の弱いお前のダチがそもそもいけねぇのさ。類は友と言うがお前もお前のダチも想像力がねぇよな。素人のガキが迂闊に危ないものに手を出したら待っているのは破滅だけっていう簡単なことが分からなかったのかねぇ!」
グリッドメーカーは勝ち誇った表情を浮かべながら高らかに嗤った。耳を劈くような甲高い嗤い声が響く。
ナイトホークスの男は掴んでいたかれの右腕を更にねじり、膝で抑えた背中を強く圧迫していった。腕の中で小気味良い音がした。骨が折れたのだ。血みどろの顔をしたグリッドメーカーは苦痛に表情を歪ませながら声を上げて笑っていた。
眠らない電脳都市の上に広がる白く靄がかった空に狂ったような男の哄笑だけが吸い込まれていった。