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魔石物語~妖精郷の花籠姫は奇跡を詠う  作者: 宵宮祀花
漆幕◆忘れじの子守歌
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宿に刻まれた後悔

「申し訳ございません。立ち聞きするつもりはなかったのですが、丁度お話が聞こえてしまい……失礼致しました」

「いえ、それは構わないのですが」


 抑も、もうすぐ食事を持ってくるとシエルから聞いていたので扉を開け放っていたのだ。それで話を聞かれたと憤るのはお門違いというもの。

 それよりも、先ほどの主人の反応が気にかかる。


「ご主人、なにかご存知なのですか?」


 ぎくりと体を強ばらせ、主人は眉間に深い皺を刻んで思い悩んだ。思案しながらも手元は的確に食事の支度を調えていく。

 やがて、主人は支度を終えると共に深く長く息を吐き、意を決して顔を上げた。


「……実は我々の娘も、行方不明なんです」


 鉛のような声音で落とされた告白は、あまりにも重いものだった。

 主人の娘は、当時九歳。ミアと背丈や体格などが同じくらいで、よく笑い良く喋る子であった。近隣の店主や客にも愛想が良く、主人はこんなに優秀な看板娘がいるなら宿屋は将来安泰だと良く言われていたものだった。

 だが、ある日。港町に仕入れの交渉をしにいった帰りのこと。

 突然娘が「いま、誰か呼ばなかった?」と尋ねた。だが主人は娘を呼ぶ声も聞いていなければ、呼んだ覚えもない。気のせいじゃないかと答えて歩き出したその直後。


「きゃあ!?」


 短い悲鳴がして、反射的に振り返った。

 見れば娘は、彼女自身の影に飲み込まれるかのように沈んでいた。主人が手を伸ばしたときにはもう頭の上半分しか見えておらず、引き上げようとすれば髪を引っ張ることくらいしか出来ない。そんなことをすれば痛がって泣くに決まっている。一瞬の迷いが、娘を影に奪わせてしまった。

 呆然と立ち尽くし、娘が立っていたはずの場所に膝をつく。地面を叩いても引っ掻いても、娘の影形すら残っていない。幻だったかのように、全て消えてしまっている。

 だが、もしかしたらいまのは見間違いで、何処かに隠れているかも知れない。主人は現実逃避と知りながらそんな希望的観測を捨てきれず、ふらりと足を踏み出した。

 周囲を見回し、薄暗い路地を覗き、港の作業員に尋ね回るも、誰一人娘を見ていない。何なら、悲鳴すら誰も聞いていなかった。街から出かかっていたとはいえ、すぐ其処には厩もあるのに。

 まるで、世界から娘の存在が切り取られてしまったかのようだった。


「私は、随分と自分を責めました。しかし妻は私を責めなかった……罵倒されたほうがずっと楽になれたと思うんですが、妻も妻で、苦しんでいましたから」


 疲れたような笑みで言い、それからクィンとヴァンを順に見た。


「あのとき……お連れの方が奇妙な影に飲まれていくのを見て、私は娘のことを思い出しました。あの子は抵抗力を持たないヒュメンの娘ですから、あっと思う間もなく沈んだんでしょう」


 目の前で沈んで行く幼げな少女の姿を見て、主人は全身の血が凍る思いだった。

 間違いない。あれが娘の仇だ。あのときは間に合わなかったが、あの少女はまだ抵抗している。早く行って手を伸ばしてやらなければ。早く。早く。早く!

 心ばかりが急いて、体は金縛りに遭ったように動かなかった。突然、体が金属の器にでもなって魂が閉じ込められた心地だった。

 すっかり姿が見えなくなって、また助けられなかったのだと理解した瞬間、どっと全身から汗が噴き出した。心臓が思い出したかのように忙しなく動き出し、周囲の音が聞こえるようになった。耳鳴りがして、いまにも倒れそうだ。隣では妻が同じ表情で立ち尽くしている。

 か細い声で「本当だったのね……」と呟いた意図を、そのときは理解出来なかった。


「娘にもあのお嬢さんにも、私は結局なにも出来ませんでした。……だからせめて、あなた方にはなにかしたかったんです」


 最後に一つ、大きく深呼吸をして、主人は照れ臭そうに笑う。


「いやあ、お恥ずかしい。旅の方にこんな身の上話を……まあそんなわけですから、どうか今晩はごゆっくりお休みください。では」


 丁寧にお辞儀をして、主人は退室した。

 室内に残されたのは、何とも言えない沈黙と場違いなほど美味しそうな食事の香りだけ。


「ヴァン、食べられそうですか?」

「おう」


 クィンの手を借りて体を起こし、ベッドから降りてテーブルに着く。

 温かいスープや焼きたてのパン、蕩けるほど煮込んだ赤身肉のシチューに、葉物野菜のサラダ。どれをとっても美味しそうで、空腹を刺激する。

 食事を始めたヴァンの傍では、クィンが静かに控えている。普段ならこの場所にはミアがいて、花翼を甘く香らせながら異国の料理に感激しているところだというのに。室内には彼女の弾む声も甘やかな花の香りも存在しない。

 たった一人いなくなっただけで、まるで月明かりを失った夜のよう。


「ただいま。ヴァンくん起きられるようになったんだね」

「おう、何とかな」


 腹部を貫通する穴が空いた上に、其処を思い切り広げられたあとだというのにもう平然と食事をしている様子に、シエルは安堵した。一緒に戻って来たルゥはテーブルの上にあるシチューに目を奪われている様子だ。


「お前さんも食っとけ。明日から忙しくなるぞ」

「いいのか?」

「いいもなにも、三人前だぜ、これ」


 シエルのほうも向きながらヴァンが言うと、先にルゥが席に着いた。この部屋にあるテーブルは椅子が二脚しかなく、三人同時に食事は摂れない。シエルは「まだ其処までお腹すいてないから、ごゆっくりどうぞ」と前衛二人を微笑ましげに眺めている。

 食器が擦れ合う微かな音だけが、室内を穏やかに満たす。

 やがてヴァンが先に食事を終えると、クィンの手を借りて再びベッドに戻った。枕をクッション代わりに背もたれとして使い、寄りかかって息を吐く。


「それにしても凄ぇな、シエルの魔法は」

「んー? そうかな? ありがとう」


 シエルが振り向いてベッドを見れば、ヴァンは服を捲って自分の腹部を見つめていた。其処には見事に割れた腹筋があるだけで、あれほど大きく抉られたというのに傷跡すら残っていない。黒い棘の痕も、ルゥの爪の痕も、全て綺麗に消えている。


「シエルがいなかったら飯も食えねえどころか、まだ臥せってただろうよ」

「それを言うなら、わんこくんのほうが偉かったよ。黒いのを取り出してくれなかったら、いくら回復魔法をかけても治せなかったもの」

「それもそうだな。ありがとな、ルゥ」


 大きなパンを両手で持って齧り付いていたルゥが、丸い目をきょとりと瞬かせて首を傾げた。

 暫く咀嚼して飲み込み、ミルクで喉を潤してから、ヴァンとシエルを交互に見る。


「おれ、えらい?」

「偉いよ。ルゥがヴァンくんを助けたんだもの」


 シエルが正面から手を伸ばして喉を擽るようにして撫でると、ルゥはうれしそうに目を細めて、照れ笑いを浮かべた。


 静かに夜が更けていく。

 逸る気持ちを宥めるように。

 そして夜は、世界を平等に包む。


 遠く離れた地にいる、ミアの上にも。夜は降り注ぐ。

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