静かな夜に
その日の夜、クィンとヴァンを部屋に残して、シエルはルゥを連れて宿の食堂に降りていた。
宿自体が大通りに面していないこともあり、中も外も比較的静かだ。カウンターの奥から調理の音と匂いが微かに届く他は、二人分の足音だけが響く。
シエルは窓辺のテーブル席に腰掛け、ルゥには正面の椅子を勧めた。
「昼間のこと、訊いてもいいかな」
「うん」
シエルが言葉を飾らずに訊ねれば、ルゥもまたあっさりと頷いた。
「あれは、魔骸の毒。喰らったら、同じになる。……ちょっと違う。魔骸に似てるけど違う、別の化物になる、と、おもう」
ルゥの懸命な説明を聞いて、シエルはなにか引っかかるものを覚えた。
ごく最近、似たような話を聞かなかっただろうか。
「…………ああ、なるほど。思い出した」
首を傾げるルゥに微笑いかけ、シエルは「ローベリアの騎士さんだよ」と付け足した。
魔骸戦から逃走する際、殿についた騎士団長が負傷。その傷口からナニカが侵蝕し、騎士団長は見る陰もない化物に変容してしまうという事件があったばかりだ。
つまり、ルゥが無理矢理にでも引き剥がしていなければ、ヴァンも騎士団長と同じ運命を辿っていたということになる。引き抜かれた黒いものは毒というより粘性生物に見えたが、あれは一種の寄生生物かそれに類するものなのだろうと推測される。
傷口から体内に侵入し、侵蝕し、宿主を変容させる。最終的にどうなるかはまだ不明だが、姿が歪んでしまうだけとは思えない。
「ルゥは、何故あれがわかったの? ていうか、引っ張り出せるものなんだね?」
やわらかく美しい若草色の瞳に真っ直ぐ見つめられ、ルゥは少しだけ居心地悪そうに目を伏せて頷いた。
シエルは細くて綺麗で、簡単に壊れてしまいそうで怖い。ルゥの彼への第一印象はいまもあまり変わっていない。
「おれも、同じ。でも、なんでかわかんないけど、おれはならなかった。その代わり、魔骸の毒がわかるようになった。闘技場で、同じ毒、飲んだときから」
「ああ……闘技場で具合悪そうにしていた、あれだよね? いまはもう何ともない?」
しなやかな白い手がルゥの頬に触れる。
闘技場時代世話になったノエやノーマも細かったが、シエルの手は別格だ。まるで、やわらかな羽毛のようでもあり、花のようでもある。この手をもっと小さく頼りなくするとミアの手になる。そんな繊細さだ。
ペタペタと頬を確かめる手と耳元で揺れる魔石の装飾がくすぐったくてルゥが笑うと、シエルは「良かった」と言って手を離した。
「元気がなかったから心配していたんだ。でも、事情を聞いて理解したよ」
守りたかった兄弟を二人とも失い、戦う目的を見失って、それでもミアの助けになりたいからと過酷な旅に着いてきた心優しい獣の子。神代種族に次いで長命なエルフであるシエルからすれば、ルゥの年齢は赤子も同然。そうでなくとも彼の素直な気質は、庇護欲をそそられる。とはいえ彼も冒険者であり、闘士でもある。必要以上に子供扱いするつもりはないが、こういうときくらい年上ぶってみたくもなるのだ。
所在なげにテーブルの上に置かれたルゥの手を握り、シエルは淡く微笑みかける。
「ヴァンくんを助けてくれてありがとう。明日からミアの捜索もがんばろうね」
「うん。がんばる」
夜が静かに更けていく。
闇が降り積もるかのように。
部屋に残ったクィンは、ヴァンが横たわるベッドサイドに椅子を置き、窓から外を眺めていた。喧騒は遠く、此処までは殆ど届かない。何事もなかったかのように街が日常を過ごしているのを、心の何処かで恨めしく思いそうになったクィンは、小さく首を振って息を吐いた。
「…………すまなかった」
掠れた声がして、クィンは視線を室内に戻した。
見ればヴァンが真っ直ぐに、いまにも死にそうなほど苦しげな表情でクィンを見上げていた。
「何故、あなたが謝るのですか」
「何故って」
謝罪も受け付けたくないのかと思い、ヴァンがクィンの顔をよくよく見れば、彼の目も表情も、一切ヴァンを責めてはいなかった。普段通りの凪いだ眼差しに、僅かばかりの悲哀を乗せてはいるものの、叱責の色は微塵も映っていない。
責められて楽になりたい内心を見透かされたようで、ヴァンはばつが悪そうに目を逸らす。
「どうしようもなかったのです。誰が往来で魔骸に誘拐されると思うでしょう。恐らくいままでは人目を避けていたか、抑も人目につかないような子を狙っていたはずです。それが突然、なりふり構わずミア様を狙ったのには理由があると思えてならないのです」
其処まで言い切ると、クィンはほんの少しだけ、注視していないとわからない程度に眉を寄せて目を伏せた。
「ミア様の御身になにかあれば、私にはすぐにわかります。報せがないということは、少なくともいまはご無事でいらっしゃるということ……ミア様が私たちを信じてくださっているのなら、私は私の成すべきことを成すのみです」
胸に手を当てて、祈るように零すその言葉は、自身に言い聞かせているようだった。
初めて会ったとき、クィンはヴァンに対してさえ警戒していた。周囲全てが敵であると想定しているかの如き、全方位に気を張り巡らしていた。それが最近は、シエルと二人で歌比べに出かけることを許したり、少しずつ信頼を寄せてくれていた。
そんな矢先の、この失態である。しかし、あの場でなにが出来たかと問われれば、魔骸相手ではどうすることも出来なかっただろうこともわかるのだが。それでも。
ヴァンは、うれしかったのだ。龍玉のような幼姫を預けてもらえたことが。頑なだったクィンの氷の心がほどけたように感じられて、とても、うれしかったのだ。
「……そう、だな。ああ、そうだ。反省会なんざあとからでも出来る。いまじゃねえ」
叱責を求めて自分が楽になることよりも、後悔の渦に沈んで自責に浸るよりも、いまは攫われたミアのことと、ミアを攫った魔骸のことだ。
体を起こして両頬をバチンと叩くと、ヴァンは表情を引き締めた。
「お帰りなさい、ヴァン。いまはあなたが見たものの情報が必要です」
「おう」
ヴァンはまず、ミアとの調査中に、彼女が「誰かに呼ばれた気がする」と訴えたことを話した。しかし周囲にそれらしい人影もなく、まず以てヴァンにはその声すら聞こえなかった。
「そ、それは、本当ですか……?」
思わぬ方向からの反応にヴァンとクィンが目を向けると、部屋の入口に宿の主人が立っていた。その手には木製のプレートに載った料理があり、白い湯気を立てている。
主人の微かに震える手が、食器をカタカタと騒がせていた。




