優しい記憶
魔術学園は王家が運営しているだけあり、建物も設備も一級品が揃っていた。王城と見紛うほど華やかな内装も、窓から望む庭園も、そして生徒たちの生活の場である寮も、全てが見事だった。
物珍しさに周囲を見回すミアを、行き交う生徒たちが物珍しげに眺める。さすがに、先生の前であからさまにはしゃぐ者はいなかったが、視線に宿る好奇心までは隠しきれていなかった。
「皆様は此方をお使いください。食堂や浴室は一階、談話室は各階に、図書室は三階にあります。各設備はご自由にどうぞ。詳細は此方にありますので、宜しければ」
入学時に渡されるものだろうか。上質な紙に印刷された寮の案内図が、ミアにも手渡された。
「授業への参加は明日からとなります。アーティカたちを迎えに寄越しますので、一緒にいらしてください」
「わかったわ。色々とありがとう」
部屋の鍵を受け取るとタレイアと別れ、ミアは寮室を見回した。
ベッドに勉強机、ドレッサーにクローゼット、それから機構術を用いた洗面所とシャワー室が、なんと全ての部屋に完備されているという。勿論ミアが借りている部屋にもそれらが揃っており、怖々とスイッチに触れれば綺麗な水が当たり前の顔をして蛇口から流れ出た。
両手に掬って一口飲むと、すんなりと体に染みていく。それから、同じように手のひらに汲んだ水をルゥの前に差し出し、ぺちゃぺちゃと音を立てて飲むのを眺めた。ついでにルゥの足を洗い、手持ちの布で拭ってからシャワー室を出た。
「そういえば、アンフィテアトラのお宿でもこんな感じの機構があった気がするわ」
あの街にも、いくつもの錬金機構や機構術を用いた設備があった。対戦表に始まり、宿の浴室やキッチンの給湯設備、照明器具やリングアナウンスに使用されていた拡声機構。
ローベリアの横暴で世界的に錬金術のイメージが悪くなっているが、正しく使用すればこれほど便利なものはないだろう。
一頻り部屋を探索し終えるとベッドに腰掛け、ミアはルゥのつぶらな瞳を見下ろした。
「ヴァンだけじゃなく、クィンとも別れて行動することになるなんて思わなかったけれど、ルゥがいてくれて良かったわ。ひとりだったらきっと心細かったもの」
ルゥは暫く考え込む仕草をしてからベッドに飛び乗り、ミアの頬を舐めた。獣人どころか、狼を通り越して飼い犬のような仕草だ。
ルゥが学園で狼の姿を取ったのは偶然だが、クィンとタレイアの会話を受けて魔獣のふりをすることにしたのは、クィンからの視線を察した上で、ルゥ自身で考えてのことだった。
男はミアと一緒にいられない。自分が人型になれば、男だと知られてしまう。そうしたらミアは独りぼっちになる。そう思ったがゆえの、番犬のふりである。
そしてルゥは、自身の選択が正しかったと、ミアの呟きを聞いて確信した。
ルゥはひとりでも、兄弟と離ればなれでも、いつか会えると思えばがんばれたけれど。ひとりが平気な人ばかりでないことくらいは、ルゥにも理解出来る。
「わたしね、いままで生きて来て、ひとりになったことなんてなかったの。でも……わたしもルゥみたいに強くならないとだめね」
『わふっ』
そんなことない。そう言いたくとも、いくら一人部屋の中とはいえ女子寮で人型にはなれない。代わりにルゥは、ミアの頬に自らの頭を擦りつけて目一杯尻尾を振った。
「ルゥ……ありがとう。優しいのね」
ミアの微笑が、少しだけ色を取り戻した。
細い腕が伸ばされ、稚い手のひらがそっとルゥの頬に触れる。それから、陽光をたっぷり浴びて風の魔素を受けた、ふわふわの毛並みを抱きしめた。ルゥはこんなにもやわらかくて温かいのに、戦うときは武器も持たずに前線で命を張ってくれる。
まだ花翼が甘く香るほど心が回復していないようだが、それでも沈みきったままよりは良いと、ルゥはぴすぴす鼻を鳴らしてすり寄った。
「そうだわ。タレイア先生が渡してくれた案内を見てみましょう」
膝の上に案内書を広げると、横からルゥも覗き込んできた。だが、読める文字が多くないのか、それとも文章がやや難解だからか、早々に首を傾げている。
「寮やそのほかの設備が利用出来る時間と、どういうものがあるかの案内よ。食堂や大浴場は利用時間が限られているけれど、図書室と談話室はずっと空いているのね」
他にも、魔獣や精霊を連れている生徒に向けた、人外種族と共に食事が出来る専用の食堂があること、魔素抜きをした海水を溜めて作ったプールや、マギアルタリアの主な信仰である月の女神の聖堂があることなどが記されている。
「校舎と寮のほかにも、たくさんあるのね。休日には食堂を一般開放したりもしているみたい」
『わふ、わう』
相槌のように挟まれるルゥの声に和みながら、ゆっくりと読み進めていく。
緻密な絵と文章で表現されている案内は、見ているだけでも想像力をかき立てられる。実際己の目で見るのが楽しみで、ミアはルゥに頬を寄せて微かに笑い声を漏らした。
『わふ!』
微かに、ミアの花翼から嗅ぎ慣れた甘い香りがして、ルゥが喜びの声を上げる。
「ふふ。楽しみね。ヴァンとシエルが合流したとき、少しでも成長した姿を見せられるように……色々なものを見て学びたいわ」
『わう! わふわふ!』
妖精郷で学んだときは、マギアルタリアに王立魔術学園があることくらいしか教わらなかった。其処がどれほど広大で、どんなに上質な設備に囲まれているかまでは学ぶ余裕がなかったのだ。
マギアルタリアに限った話ではなく、どの街も座学だけではわからなかった新鮮な驚きと喜びに満ちていた。港町の爽やかな海風も、アンフィテアトラのむせ返るような熱気も、エレミアの街を満たす心躍るような歌と音楽も、そして――――ローベリアで感じた、果てしない寂寥感も。
世界をその目で見て、心を喜びで満たしなさいと妖精王は言っていた。災厄の魔石を巡る旅が、楽しいことばかりでないことを知ってなおそう言った理由が、ミアにもわかってきた気がした。
「お父様はきっと、こんな世界でも、それでも笑って生きようとする人に触れてほしかったのね。取り戻すべき世界を、しっかり心に焼き付けるように……」
ルゥを抱きしめ、ミアは自らに言い聞かせるように呟く。ミアより少し高い体温が毛皮越しにも伝わってきて、思わず小さな欠伸が漏れた。
「少し早いけれど、休みましょう。明日は学園でお勉強だもの。いつもはクィンが起こしてくれるけれど、一人で起きなきゃならないのよ。大変だわ」
『わふん!』
ミアの言葉に応えるように、ルゥが胸を張って尻尾を振る。
それが彼の明るい声で「任せろ」と言っているように見えて、ミアは小さく笑った。
「ルゥ、一緒に寝てくれる? あなたとくっついていたら温かそうだわ」
『わふ』
いそいそとベッドに横たわり、隣にルゥが寝そべったのを確かめると、やわらかな布団をかけて灰色の毛並みを抱きしめた。体温が傍にあるお陰で、思ったほど寂しくはなさそうで安堵する。
「おやすみなさい、ルゥ」
挨拶の代わりにミアの頬をひと舐めすると、ルゥは抱き枕になりながら目を閉じた。
暫くして、ミアが寝息を立て始めた頃。
ルゥは獣人の姿になってミアの額に口づけをした。
「おやすみ、ミア」
それは、まだ兄弟が揃っていた頃の習慣。
身を寄せ合って生きていた幼き日の記憶。
ルゥは切なげに目を細めると身を横たえ、再び獣の姿になった。




