舞台裏の二人と一匹
一夜明けて、ミアたちと別行動しているシエルは、ルゥに魔獣を任せて城下町を歩いていた。
街の状況も城でなにが起きているかもわからない現状、あまり離れすぎても危険なため、互いが視界に入る位置で周囲を観察する。
「やっぱり……人の気配はないね。ヴァンくん曰く、外から見たときは兵士が見張っているだけで特に変化はなかったそうだけれど……」
しかし彼もまた、城下町に入ってからは異変を感じるようになっていた。黒い霧や夜の帳までは見えていないようだったが、人の気配がないことは皆と同意見だったのだ。外からではわからない異変と、見え方の違い。城や城下町全域に何らかの魔術が施されていることは事実だろうが、その正体を掴むには、恐らく本丸であるローベリア城へ乗り込む必要があるだろう。
「すまないね、お邪魔するよ」
一言断ってから、手近な民家に入る。中は、意外と綺麗だった。
「綺麗っていうか、これは……生活の途中で人が消えている……?」
玄関を入ってすぐにダイニングルームが見える。テーブルの上にはスープ皿が二つ載っており、誰にも飲まれないまま乾いた、スープの残骸がこびりついていた。キッチンには調理済みの料理が残っていて、半ば腐敗したいまも配膳されるのを待っている。
なにより異様なのは、キッチンとダイニングテーブルのそばにそれぞれ落ちている服だ。まるでその場で脱ぎ落としたかのように、一式揃って放置されている。
「この服、中になにか……砂……?」
シエルが服の端を摘まんで持ち上げると、ざらざらと音を立てて灰茶色の砂が大量に零れ出た。砂は服の中にだけ溜まっており、室内の他の場所には見られない。
嫌な予感が、背筋を伝う。と、外からルゥの声が聞こえ、シエルは探索を中断して民家の外へと出て馬車に戻った。
「わんこくん、どうかした?」
「こいつ、ちょっと落ち着かない。外に出たほうがいい」
「ああ……そうみたいだね。わかった、一度外に出ようか」
魔獣を宥めつつ、城下町の外へ向けて歩き出す。が、街と外の境目まで来たところで、シエルはルゥと魔獣を引き留めた。
「……だめだね。結界が張られているよ」
「けっかい?」
ルゥに頷きながらシエルが手を伸ばすと、バチリと音を立てて指先が弾かれた。驚いたルゥが、目を丸くしてシエルの指先を見る。黒い汚れはシエルの治癒魔法であっという間に治ったものの、ただでさえ不安定な魔獣をこんな攻撃的な結界に突入させては、どうなるか知れたものではない。
現に、シエルが結界に触れた瞬間、数歩後退ってしまっている。
「うぅん……そうだね。こうなったら、鉄火場に突入しているミアたちには悪いけれど、ちょっと避難させてもらおうかな」
「ひなん? どうするんだ?」
首を傾げるルゥの横で、魔獣がルゥの脇腹にすり寄っている。鍛えているルゥだから平然と懐く仕草を受け止めているが、シエルが同じことをされてはよろけて倒れていただろう。
「私の劇場に招待しよう。魔獣を呼ぶのは初めてだけれど……何とかなるといいなあ……」
シエルの指先が竪琴に触れ、軽やかな音色を奏でる。その瞬間、周囲の景色が一変した。
「わ……! すごいな!」
感嘆の声を漏らし、ルゥが目を輝かせる。
果てまで続く草原と、何処までも透き通った青い空。吹き抜ける風はやわらかく、ルゥと魔獣の毛並みをそっと撫でる。優しく微睡みを誘う光景は何処か懐かしい。ルゥは、ローベリアの異変を一瞬忘れ、ふわりと欠伸をした。
「魔獣くんも、怯えが薄くなったみたいで良かった。劇場のほうが怖いかなと思ったのだけどね」
「ほんとだ。落ち着いた。シエル、すごいな」
落ち着いたどころではない。
あれほど興奮して怯えていたのが嘘のように足を折り畳み、顎を伏せ、目を閉じた。
「この子もずっと緊張していたんだね。いまはお休み。ルゥも、此処は安全だから眠るといいよ」
「いいのか? シエルは……」
「私は大丈夫。抑も、元々ヒュメンや他種族とは時間の感覚が違うからね。数日起きてるくらいはどうってことないのさ」
不思議そうに首を傾げるルゥに、シエルは優しく笑いかけて。竪琴に指をかける。
「いまはお休み。なにも恐れるもののない、この場所で。たとえ仮初めの楽園でも、一時の安らぎくらいは与えられるだろう。さあ、お休み」
歌うようなシエルの語り口に、ルゥの瞼がとろけるように落ちていく。
穏やかな美声と、エルフ族の稀なる清廉な魔素に、全身を包まれながら眠りにつく。
それは、ルゥが在りし日故郷で家族と暮らしていたときに感じた、いまや失われて久しい安息の記憶。闘技場にいたときでさえ心から休まることなどなかったルゥは、久しぶりになにを憂うことなく穏やかな寝息を立てて眠ることが出来たのだった。
「向こうはどうなっているかな……無事だといいのだけれど」
シエルも魔獣の体に身を預け、目を閉じる。
視界と意識を、劇場の外へと繋げるために。




