刻まれた傷の記憶
ローベリアでの、初めての夜。ヴァンは寝室を抜け出して、談話室のバルコニーで涼んでいた。彼の目にはミアと同様、城や城下町を覆い尽くす黒い荊が見えている。石畳の道や壁に張り付き、血管のように脈動しては成長する、歪な荊が。
「あれ……ヴァンさん? どうしたんですか?」
不意に背後から声をかけられ、ゆるりと振り向く。
其処にいたのは、昼間再会したアフティだった。彼は相変わらず分厚い本を抱えている。
「少し外の風に当たりにな」
「僕もご一緒していいですか?」
「おう」
アフティは、失礼しますね、と言ってヴァンの隣に着くと、ゆっくり深呼吸をした。荊が蔓延るばかりで人の気配がない城下町を見下ろし、それから手すりに背を預けて座り込む。
「叔父だっつったか。あのおっさん」
「……はい」
「身内で旅ってのも、珍しいよな」
「そうですよね……あまり、聞かないかも知れません。それに本来は、僕も一人で旅に出るつもりだったんです」
バルコニーの床に膝を抱えて座ったまま、アフティは俯きながら、ぽつりぽつりと零し始めた。冷たい雨だれが地面に染みていくような、重く沈んだ声で。
「あの人……僕の叔父は、父の弟だったのですが……元々母に恋慕していたそうなんです」
アフティは語る。何故飲んだくれの叔父と旅をする羽目になっていたのかを。
彼の父は地元の名士で、母は街で有名な美人だった。大きな商家の跡取りだった父と、街一番の美女は瞬く間に惹かれあい、当然ながら街でも噂になった。夫婦になるのに時間はいらず、誰もが二人を祝福した。
ただ一人、叔父のモナクを除いて。家も継げず、密かに想っていた女も手に入らない。しかも、嫁を取れば元々家の金を食い潰すばかりだった自分を、本格的に追い出そうとするかも知れない。やけ酒が増え、表立って街などで暴れるような真似はしないものの、昼間から酔い潰れている彼を人々は疎んでいた。
兄は優秀で美しい妻も迎えたというのに、何故これほど差が出来たのかと口さがなく囁く始末。
「そんなとき、子供が……僕が生まれたんです。……僕は、とても母に似ていました」
真上から降り注ぐヴァンの視線を浴びながら、アフティは語る。
赤子の姿を見たとき、叔父はそれまで荒れていたのが嘘のように、人が変わったという。笑顔が増え、家にも帰るようになり、昼間から飲んだくれることもなくなった。
街の人も兄夫婦も、それを見て安堵した。ああ、やはり子供の存在というのは偉大なのだ。実の子でなくとも、身内であればやはり愛らしく思うものなのだと。誰もが、全てが上手く行くように思っていた。
「そうして、僕が十歳の誕生日を迎えた日のことでした。……寝室に、彼が来たんです」
眠い目を擦りながら半身を起こしたアフティが見たのは、獣のように目をぎらつかせながら荒い呼吸を繰り返す、優しいはずの叔父だった。
その夜のことは、一生忘れられそうになかった。
口を塞がれ、両手を縛られ、あっという間に抵抗出来ない状態にされて、そして。
「僕は、母の代わりでしかなかった……ずっと、ずっと……」
ぎゅっと膝を抱え込み、涙声を隠すように俯く。
なにが起きたのか理解出来ず、両親に相談することも出来ず、アフティは真夜中にだけ豹変する叔父を受け入れ続けた。昼間の彼が本物で、夜の彼は偽物か、或いは悪夢だと思い込もうとした。
けれど、ものを知らない幼子もいつかは成長する。十五になって、世間を少しずつ知っていったアフティは、自身の置かれている状況が異常であると自覚してしまう。
このままではいけない。ようやくそう思えた矢先のこと。図書館から帰宅したアフティの目に、燃え盛る自宅が映った。飛び込もうとするアフティを、近所の住民が抱き留める。
火が収まってから調べた結果、父は書斎、母はキッチンでそれぞれ亡くなっていたという。
「僕に残されたのは、この一冊の本と……全てから逃げるようにして船に乗った僕を追ってきた、叔父だけでした」
自嘲の笑みを浮かべて、アフティはヴァンを見上げた。
彼が持っている本は、図書館が彼を同情して寄付してくれたものだという。大っぴらに金を渡すことは出来ないが、せめて生きる助けにしてほしいと老齢の館長が手を握ってくれたのだそう。
「……すみません。会ったばかりなのに、重い話を聞かせてしまって」
「別に、誰しもあんだろ。そういうことは。吐けるときに吐いとけ。胃もたれすんぞ」
くすりと笑い、小さく「ありがとうございます」と零す。
「ヴァンさんも……あったんですか?」
「さあ、忘れたな」
さらりと答えるヴァンの表情に、拒絶の色はない。不快感を露わにしているふうでもない。ただ風のように流し、平然としている。
アフティ自身も無理に聞き出すつもりは毛頭ないため、それ以上無遠慮に踏み込むことはせず、立ち上がってローブの裾を払った。
「そんなわけですから、最初は少し喜んだんですよ。……でも、だめでした。あんなのでも唯一の身内で、何故いなくなったのかすらわからないままなのは気持ち悪くて」
何処か晴れやかな顔でそう言うと、アフティはヴァンにお辞儀をした。
「それじゃ、僕は部屋に戻ります。お休みなさい」
「おう、お休み」
パタパタと駆け去っていく足音を背後に聞きながら、溜息を一つ。
ヴァンは外をじっと見つめながら、目に力を込めた。ヒュメンの虹彩は獣のそれとなり、視界が一変する。暗闇でも遠くまで良く見通せる瞳には、魔獣の背に寝そべるルゥと、竪琴を抱きしめた格好で馬車の中で悠々と横になるシエルの姿が映っていた。