高みからの顛落
神の気分で見物していたオーナーが、わなわなと手を震わせている。
「なんだ……いったいなにが起こっているのだ!」
「……まさか……あの娘は……」
一方的な蹂躙劇が楽しめると思っていたオーナーが動揺する横で、秘書の男が静かに呟く。その目は昏く、ミアたちを映しているようで真っ直ぐ見ていない。
「おい、聞いているのか!」
ブツブツとひとり呟いていた秘書に、オーナーが酒を引っかけて喚く。
秘書は一瞬目を眇めたが、それを悟られる前に表情を取り繕った。
「私にも理解しかねます。ティンダーリアの詩は失われたはずなのですが……」
失われた詩魔法を、何故かティンダーリア王家とは無関係な、フローラリアの娘が紡いでいる。詩魔法は、仮にそれを聞いたことがある人間が真似をして詠ったところで、何の効果も無い特殊な魔法だ。ならば彼女は、魔骸に対抗しうる現状唯一の力ということになる。
「……興味深いですね」
苛立ちを露わに酒を呷り始めたオーナーの耳に触れないよう、幽かな声で秘書は囁く。その顔は歪な笑みを形作っており、その瞳はミアを蜘蛛の糸のように絡め取っていた。
『ち……挑戦者の勝利です!!』
誰もが忘れていたリングアナウンスの宣言が響き、一拍遅れて歓声が上がる。だがミアたちは、苦々しい顔で俯き、か細い声で鳴き続ける巨大な双頭の子犬の傍から離れられなかった。
異形へと改造されても、魔骸へと変異させられても、兄弟の記憶を失っていないことは幸いか、それとも呪いか。それは当人にしかわからないこと。しかしどちらであれ、か細い子犬の鳴き声は聞く者の胸を哀切に締め付ける。
「……ロア……オル…………」
ハッとして、ミアたちが顔を上げる。
自分たちが会場入りした出入口の前に、ノエに支えられる格好で半獣姿のルゥが佇んでいた。
その表情は、絶望と悲哀と驚愕とが入り混じった複雑なものだった。更にルゥの口元には、黒いタール状の汚れが付着しており、咳き込む度に古くくすんだ血のようにぼたぼたと地面に零れては黒いシミを作っている。
ふらふらと、ルゥがノエの手を離れて双頭の獣へと歩み寄る。
先ほどまで勝利に沸いていた観客が、ルゥの様子に気付いて静まり返った。
「ずっと……病気だって……ルゥががんばったら、治るって……」
ルゥが縫い付けられた口を持つ頭に縋り、優しく抱きしめて撫でる。そんなルゥに、両目を縫い付けられたほうの頭がすり寄り、傷を癒すようにそっと頬を舐めた。
それを最期に、哀しき獣の兄弟は、愛する兄の腕の中で永久の眠りについた。
「っ……ぅ、あ……あああああああっ!!」
魂を振り絞るような、心を切り裂いて溢れ出るような慟哭が響いた。涙を溢れ出るままにして、子供のように大声で泣き続けるルゥに、誰も声をかけることが出来なかった。
ミアはクィンに縋りながら声もなく涙を流し、クィンはそんなミアを支えながら沈痛な面持ちで佇み、シエルは竪琴を抱きしめながら俯き、ヴァンは怒りと悔しさに拳を震わせている。
ふ、と。
幼い兄弟に取り憑いていた災厄の魔石が、ふわりと浮いてルゥへと近付いた。
「いけない……!」
悲哀は、あの魔石が好む感情の一つだ。
魔石が次の寄生主を見つけたのだとクィンが気付いて手を伸ばし、魔石を握り締めた。クィンの手の中でいつものように霧散し、魔石を囲んでいた白い花弁が舞い落ちる。と同時にクィンが膝をつき、慌ててミアとシエルが駆け寄った。
静まり返った場内にルゥの慟哭だけが響く中、不意に場違いな拍手が舞い込んだ。
「ふっははは! 良い見世物だったぞ!」
拍手の主は、全ての元凶であるオーナーだった。
ギラつく宝飾品に塗れた手を打ち合わせて、大仰な仕草でゆったりと拍手をして嗤っている。
「その獣を倒したお前たちには、約束通り金をやろう! この街に来る冒険者共など、金さえ手に入れば何でも良いのだろう?」
ピタリと、ルゥの泣き声が止んだ。
「オーナー……嘘、ついたのか……?」
暗い水底を思わせる低く沈んだ声で、ルゥが問う。だが、それすらも可笑しそうに笑いながら、オーナーは悪びれもせず「だったら何だ」と吐き捨てた。
「全く、知能の低い獣は扱いやすかったぞ。ああ、そうだ。病気だなどと見え透いた方便なんぞを信じ切って、いままで私のために稼いでくれた礼をしなくてはなあ!」
懐から、金と魔石でゴテゴテと装飾された銃を取り出し、ルゥに向ける。太い指が、トリガーに掛かる。ぐっと力がこもった瞬間、オーナーが後方へと真っ直ぐに吹き飛んだ。その軌道上にいた冒険者たちが咄嗟に避けたため、物騒な花道が出来ている。
「ゲブウッ!!?」
壁に巨体が叩きつけられ、そのままずり落ちて床に転がる。
水を打ったように場内が静まり返り、観客たちは壁に叩きつけられたオーナーから、ゆっくりとリング上へと視線を移す。
「ケッ、ざまあねえなクソ野郎が」
拳を振り抜いたのは、ヴァンだった。
くるりと振り返り、ヴァンは殴ったほうの手をひらひら振りながら呆然とするルゥと向き合う。
そのとき、一瞬、獣人とも蛇人ともつかない鋭い虹彩の瞳に射抜かれたような気がして、ルゥはビクッと肩を跳ねさせた。彼は、ヒュメンではなかっただろうか。
「オマエ……」
痛々しく涙の痕が残る丸い瞳で、ルゥはヴァンを見つめる。もうあの鋭い目は何処にもなくて、ルゥは見間違いだろうと思うことにした。ヒュメンであるはずのヴァンの瞳が、自分と似たような色形をしているなど、あり得ないのだから。
「……オマエ、なんで……」
「悪い。あんまりムカついたもんだから、お前のオーナーぶっ飛ばしちまった」
ヴァンは悪いと言いつつ僅かも反省していない様子で肩を竦め、腰の短剣に手を添えた。ルゥが聞きたかったこととは違う答えが返ってきたが、だからといってどう訊ねれば望んだ答えが返ってくるか、ルゥにはわからない。
「一応あのクソ野郎は闘士でも何でもねえから、素手にしたんだが……」
「え……そ、そうか……オマエ、えらいな」
論点を逸らされたことに気付かず、へらりと笑って、それからルゥは力が抜けたようにその場に膝をついた。再度咳き込み、膝の上に赤黒い液体がぼたりと落ちる。
ヴァンがルゥを支え、クィンに連れ添われながらミアとシエルが隣に並び、眠るように事切れている幼子を見上げる。其処へ、倒れた闘士を運び出す任を負っている救護員たちが大きなカートを押しながら現れた。
「あとのことは我々にお任せください。皆様は救護室に」
追い立てられるように衆人環視のリングから降ろされ、一行は最後に一度振り返ってから会場をあとにした。その背に観客の「良くやった!」「ゆっくり休めよ!」といった、この街では珍しく温かい声援が投げかけられ、ルゥはまた静かにひとすじの涙を流した。




