黒く染まる絆
四人が会場に姿を現すと、会場中からわあっと野太い歓声が上がった。
罪人扱いされていることを知らないのか、或いは罪人だろうが奴隷だろうが面白い戦いさえ見物出来れば何でもいいということなのか。
ともあれ観客は四人が思うほど、今日の試合がルゥではないことを憂えてはいないようだった。
『そして、今回彼らが対戦する魔獣はこれだー!!』
リングアナウンスの声と共に、魔獣戦用の大きなゲートが開く。闇の奥からずしりとした足音と地響きが、一歩ずつ近付いてくる。そして、魔獣が姿を現すと、会場中が息を飲んだ。
それはミアたちも例外ではなかった。
「あ、れは……」
その魔獣は、見上げるほど巨大な双頭の灰色狼だった。
左側の頭は目を縫い付けられており、右側の頭は口を縫い付けられている。四つ足全てに、棘が外側と内側両方についた鉄の足枷がついていて、傷口からはじわじわと血が流れている。その傷は僅かに膿んでいるようで、近くに来ると鉄錆の臭いに紛れて若干の腐敗臭がする。
【████―――――████―――!!】
魔獣が高く吼えた、その声を聞いた瞬間。ミアは小さく息を飲み、大粒の涙を零した。同時に、シエルも片手で口元を覆い、傍にいたヴァンに寄り添った。
「ッ、おい、大丈夫か?」
シエルはこくこく頷き、白い肌をより青白くさせながら悲痛な面持ちで魔獣を見上げた。小さく震える細い指先も、瞠られた翠玉の瞳も、悲愴に歪んだ柳眉も、全てが痛々しい。
「こんな……こんなことが……どうして……」
「おいシエル。なにを読み取った。嬢ちゃんも様子がおかしいし……コイツがいったい何だって」
シエルは天から降り注ぐ清らかな雨雫のような涙を零しながら、震える唇で必死に紡ぐ。
「この魔獣は……いや、この『子たち』は、ルゥくんの……弟たちだ……」
「…………は?」
愕然とした表情で、ヴァンは目の前の魔獣を見上げる。
何処をどう見たら、この見上げるほど巨大な魔獣が獣人族の子供たちに見えるというのか。そう反論しかけて、ヴァンは最悪の考えに思い至る。
――――野生の弱い魔獣を捕まえて、錬金術の極意で以て戦いに耐えうる魔獣へと造り替える。
まさか。
まさか。
そんなことが。
「とんでもねえクソ野郎だな……!」
叶うなら魔獣との戦いを放棄して直接オーナーを殴ってやりたい。いや、ただ殴るだけでは気が済まない。どんな性根をしていたら幼子を歪な魔獣に改造出来るというのか。
オーナーへの怒りを露わにし、ヴァンは短剣をキツく握り締める。と、敵意に反応した魔獣が、再び遠吠えをした。瞬間、魔獣の体に悍ましい紋様が浮かび上がり、全身を覆い尽くした。両目が赤黒く染まり、災厄の魔石独特の名状しがたき昏い気配が周囲に満ちる。
「な……! 魔骸だと!?」
「ミア様」
「っ、わ……わかっているわ……」
そうは言うものの、あとから涙が溢れて止まらない。魔獣の慟哭はミアの心を震わせ、詩を紡ぐ声をも震わせた。胸が痛い。浄化のための詩が喉に閊えて出てこない。
試合を盛り上げるためのリングアナウンスも、見物客も、誰もが目の前の異常事態に固まって、動けずにいる。四人だけが魔獣に向き合い、それぞれ武器を構えた。
『しっ……試合開始ッ!!』
いつの間にかリングの外へ逃げていたリングアナウンスの男が、一言そう叫ぶや柵を乗り越えて観客席へと避難した。魔獣かと思っていたのが魔骸だったのだ、無理もない。寧ろリングの周りを彷徨かずに隠れていてくれるほうが、いまはありがたい。
ヴァンとクィンが武器を振るう。シエルが竪琴を奏でて二人を支える。しかしミアは、哀しみのあまり詩を紡ぐことが出来なかった。詠わなければと思えば思うほど、稚い悲痛な鳴き声がミアの魂を握り、容赦なく揺さぶってくる。
浄化の詩が紡がれないことで、ヴァンとクィンに傷が増えていく。一方で魔骸は苦しげに喘ぎ、嘆き、暴れ狂い続けている。
「ふん。魔骸を殺すなど出来るはずもない。制御装置を持つ私だけがあれを使えるのだからなあ」
愉快愉快と、太い腹を揺らしてオーナーが笑う。
オーナー専用席から見下ろす景色は実に滑稽だと、高価な酒を片手に、それこそ神にでもなったつもりで必死に戦う四人を眺め下ろした。
「ミア様!」
「――――っ」
真上から振り下ろした巨大な爪が、太い腕が、ミアを庇ったクィンの背を抉った。花蜜の香りを纏う黄金色の血が、ミアに降りかかる。見開かれた宝玉の瞳の中で、クィンが不器用に微笑む。
「ミア様……ご無事、で……」
翼を引き裂かれた翼人の如き深い傷を背負い、血を流しながらもミアを庇うようにして魔獣へと向き直るクィンを見て、ミアは漸く目を覚ました。
「わたし、なにをしていたのかしら……」
泣いて誰かが救われるのか。
躊躇って彼らが助かるのか。
魔骸にされた幼子たちを救えるのは、自分の詩だけなのに!
《――――Sess mia. yoa Sphilitie liviratytya!》
ミアは詠う。悲愴な声で。声を震わせて。
暗闇で彷徨う幼子を照らす、光のように。
【████――――――!!!】
魔骸が叫ぶ。悲痛な声で。喉を震わせて。
暗闇で彷徨う幼子のように、兄を求めて。
「……手加減は無用です。最早、戻る途はありません」
「くそ……ッ!!」
ヴァンが、横薙ぎに振り払われる大木のような前足から逃れながら、悔しげに歯噛みをする。
ミアにあの力が及ばぬよう留意しながらも、自分たちの身も守らなければならない。更にいまはクィンも負傷している。
「支援は任せて、ヴァンくんは前に集中してほしい。援護が終わったら執事くんを治すよ」
シエルが竪琴を構え、音を奏でる。
ミアの詠声とシエルの竪琴の音色が重なり合い、音の波となって魔骸を包む。
雷鳴が如き慟哭が闘技場を震わせているにも拘らず、二人の清かな詩は明瞭に響いていた。
【████――――! █、███――――!!】
ミアが詠い始めてから、明らかに魔骸の様子が変わった。苦しげに息を吐き、頭を振り乱して、先ほどまでは狙いを定めていた前足による攻撃も、何処か手探りのような有様となった。
悲嘆の声がミアの胸を握り潰そうとも、ミアは必死に細い喉を震わせた。祈りを込めて、暗闇に囚われた哀しい魂が解き放たれるように。
シエルの治癒の風によってクィンが前戦に復帰すると、詩の後押しもあって巻き返し始めた。
普段であれば声援と野次を飛ばしながら観戦している観客たちが、固唾を呑んで見守っている。此処にいる観客は殆どが冒険者だ。魔骸の脅威は誰よりも知っている。
《SSI saddi yoa noi gazza. Yae mia Sess. yoa ti yoa》
祈りが詩となり、詩が風となって魔骸を包む。風が花弁を纏い、荒くれ共で満たされた拳闘場に咲き乱れた。花の渦はやがて魔骸の頭部へ収束すると、黒い花心を持つ一輪の白い花となった。
地響きを伴い、魔骸が地面に倒れ伏す。か細い呼吸を繰り返すばかりとなったそれは最早魔骸と呼ぶに及ばず。
ただただ深い哀しみの中、恋しい兄を求めて足掻く幼い獣に過ぎなかった。