宵越しの異変
――――同日、夜。
アンフィテアトラのとある屋敷にて。
与えられた部屋のベッドで丸くなって眠るルゥの元に、影が差す。ぱちりと目を開けたルゥは、警戒する様子もなく相手に笑いかけた。
「オーナー、こんな時間にどうしたんだ?」
オーナーと呼ばれた男は、恰幅の良い腹を撫でながら目を細めて笑い返した。豪奢な服。手指を飾る貴金属と魔石の数々。一目見ただけで富豪とわかるが、センスの悪さもまた一目瞭然だった。
「いやなに。明日は試合を見に行くと伝えていなかったと思ってね」
「えっ、オーナー、見に来てくれるのか?」
「ああ。たまにはいいだろう。言わずにおこうかとも思ったが、試合中に気が逸れては大変だと、秘書に言われてね。遅くなったが伝えにきた」
「わかった! おれ、がんばる!」
純粋に喜ぶルゥを見下ろす、細められた目の奥に怪しい光が宿る。だがルゥはそれに気付かず、オーナーに満面の笑みを向けている。
「そうそう。与えた薬はちゃんと飲んだかね」
「飲んだ!……なあオーナー、兄弟のびょーき、ちゃんと良くなる?」
「勿論だとも。君が闘技場でがんばって稼げば稼ぐほど、再会は近くなるんだ。会えなくて寂しいだろうが、彼らも治療をがんばってくれているから、君も君の仕事を果たすように」
ルゥが力強く頷くと、オーナーはルゥの肩をひと撫でして「それじゃあ、お休み」と言い添えて退室した。
閉じた扉を暫くじっと見つめ、それからルゥは擽ったそうな笑い声を漏らしながら再びベッドに潜り込んだ。
一方。
部屋を出たオーナーは忌々しげに顔を歪めるとハンカチでルゥを撫でたほうの手を拭い、それを影のように付き従う秘書に押しつけた。
「オーナー、例の冒険者に関しては大凡報告の通りとなっております」
「ふん。戦うしか能のない畜生めが。現在育成中の闘士もプリンスで充分やっていける力をつけてきた。頃合いだろう。アレのお披露目の準備をしておけ」
「……御意のままに」
暗がりで密やかに行われたやり取りは他の誰の耳にも届くことなく。
一夜明けたアンフィテアトラは昨日と変わらぬ喧騒に包まれていた。
「夜遅くまで賑やかだったのに、朝からも賑やかなのね。皆、いつ眠っているのかしら」
「不思議だよねえ」
昨日と同様、拳闘会場に入りながら、ミアとシエルがのんびりと話している。
今日の対戦カードを確認するとルゥの名前があり、観戦チケットはまたも飛ぶように売れているようだった。
「あれ、でも、今日はルゥくんを見ないね。昨日はあんなに歩き回っていたのに」
「そういえばそうね。どうしたのかしら」
眼下のリングでは、トルーパー階級の試合が行われている。実力が拮抗しているのか試合時間が少々伸びているようだが、息をつかせぬ応酬に観客も飽きずに応援している。
そんな中辺りを見回して見るが、やはりルゥの姿は見られない。試合が近いから、控え室にでもいるのだろうかと、そう思ったときだった。
「あなた方、ルゥのファンですか」
ミア一行の背後から、妙に艶っぽい男の声がした。
振り向いて見るとしなやかな立ち姿の男が、一行を糸のように細い目で見つめていた。謎の男はこの街では珍しく身形が良く、上品で、嫋やかだ。ミアたちも決して言えた義理ではないが、彼もまた、選手どころか観客の荒くれにも簡単に吹き飛ばされてしまいそうに見える。
「アンタは……」
「私は此処のクィーンのオーナー、ノエ・チャンドラーと申します」
「クィーンのオーナーが、俺たちに何の用だ?」
警戒を孕ませつつヴァンが問うと、ノエは「単刀直入に申し上げます」と前置いて、言った。
「ルゥを助けて頂きたいのです」
「それってどういう……」
シエルが問いかけたその声を、わあっという歓声がかき消した。どうやら、長引いていた試合が終わったらしい。敗戦チケットで出来た紙吹雪が、会場をひらひらと舞っている。
突然の歓声に驚いた四人が一瞬会場へと目を逸らし、またノエのほうへ視線を戻すと、既に彼は其処にいなかった。
「あら……? オーナーさん、帰ってしまったのかしら」
「聞きたいことがあったのにね」
「助けるったって、具体的にどうすりゃいいんだ」
「抑も、何故私たちなのでしょうか……」
ルゥのファンなら、会場にそれこそごまんといるはずだ。なのに、敢えてミアたちに声をかけてきたのは、単純に人が良さそうに見えたからか、それとも。
晴れない気持ちを抱えながら、試合がよく見える位置へと移動する。掛け金をスッた人が、肩を落として会場を出て行くその傍らで、儲けた人が仲間と肩を組んで酒場に消えていく。悲喜交々の人波を逆らいつつ、昨日とほぼ同じ場所に四人で並んだ。
手すりに両手を乗せて覗くミアの左隣にシエルが、右隣にクィンがつき、クィンの隣にヴァンがつく。座席指定のある一階席も殆ど埋まっており、ミアたちがいる二階の立ち見席にも次々観客が押し寄せてくる。
プリンス階級でこれほどなのに、クィーン以上は更に賑わうというのだから信じられない。
『本日もやって参りました! 注目の対戦カード!』
リングアナウンスが始まり、ルゥと挑戦者がリング上へ現れる。前回は愛想良く観客に手を振り声援に応えていたルゥだが、今日は様子が違った。何故か半獣の姿になっていることもそうだが、それ以上に体調が悪そうに見えるのだ。
「どうしたのかしら……何だか様子が変だわ」
「魔素の乱れがひどいですね。昨日の今日であれほど狂うことがあるでしょうか」
ルゥはまるで風邪を拗らせたかのように息が荒く、顔も赤い。視線も定まらず、何とか気合いで立っている状態だ。しかし観客も対戦相手もそれに気付くことなく、試合が始まってしまった。
ふらつきながらも相手の攻撃を避け反撃のチャンスを窺うが、本調子ではないためなかなか手が出せない。其処で漸く観客たちも彼の様子がおかしいことに気付き、ざわめき始める。
「なあ、あれおかしくないか?」
「体調でも崩したってのか? それにしたって……」
動揺が広がる中、挑戦者が好機とばかりに大ぶりの一撃を放つ。が、ルゥはそれをいなして懐に潜り込み、痛烈な一撃を見舞った。
「がッ!?」
挑戦者はそのままリング外へ吹き飛び、そして、動かなくなった。
死んじゃうこともあるから、半獣の姿では戦わない。そう言っていたのに、ルゥはたったいま、半獣状態の全力をヒュメンの戦士に叩き込んだのだ。
勝者を讃える歓声は起こらず、動揺と困惑だけが会場を満たす中、リングアナウンスの声だけが虚しく響いていた。




