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祝福されし歌声

 シエルの指先が、竪琴に掛かる。

 ほんの一音。たったそれだけを奏でた瞬間、全ての者が息を止めた。

 世界中から音が消えたかと錯覚するほどに、会場中が静まり返った。

 天上の風が気紛れに地上を撫でたかのように。まさしく空気そのものが一変し、そして、世界の全てが二人の嫋やかな手のひらへと収められたのだ。


 咲き初めの花を想わせるミアの幼く高い声が、やわらかく響く。シエルの若草の如き清廉な甘い声が、爽やかに吹き抜ける。瑞々しい若木の如きしなやかな手指がつま弾く音色が、波紋のように会場中へと広がって、聴衆を包み込む。

 全身が音に浸る。穏やかな波にたゆたうように。涼やかな風にまどろむように。

 満開の花園で春の陽光を浴びながら夢を見る幸福を、この上ない安息を、歌を聞いている全ての者が味わっていた。

 それは至上の享楽。この上なき陶酔。この世のどんな美酒も、これほど心を酔わせることはないだろうと思わせ、同時に、いま味わっている深く甘い悦楽がいずれ終わりを迎えることへの絶望も与えてくる。

 息をすることさえ憚られる。己の鼓動さえも煩わしく感じる。やがてそれすら聞こえなくなり、自身の全てが二人の歌に満たされてゆく。全てを忘れ、ただこのときに浸っていたい。赤子の如き純粋な願いに、魂ごと支配される。


 ミアとシエルは、地上の楽園と言われる妖精郷で暮らす兄妹の、仲睦まじい様を歌った。

 只人が歌えばただの童謡でしかないそれは、二人の喉を通ることによって、聴衆に神々の国にも劣らぬ花咲く楽園を見せた。穏やかで優しい日々。愛に満ちた世界。恐ろしいことなど、この世に何一つありはしないのだと心底から信じて、安らかにただ在られる歓び。

 兄を信じ、慕う妹と、妹を愛し、慈しむ兄との軽やかな輪唱を再現すれば、聴衆は花園で微笑み合う美しい妖精の兄妹を其処に見た。

 いまこのとき、この場所以上に素晴らしく幸福なものは世界に存在し得ない。なにを疑うことがあろうか。退屈も不安も、存在しようはずがない。此処は地上の楽園、妖精郷なのだから。


 人は幸せでも涙するのだと、全ての聴衆が魂で理解した。

 滂沱のおもてでただただ聴き入ることしか出来ない。全身で歌を浴び、魂を歌に浸す。

 ただ耳で聞く音楽など児戯に過ぎなかったのだ。真に詩の女神の寵愛を受けし玲瓏たる歌声は、こういうものであったのだ。


 ――――魂を揺さぶる天上の歌声の、なんと馨しいことか!


 いつの間にか、歌は終わっていた。

 賛美の喝采は、一つたりとも起こらなかった。

 誰一人として身動ぎすら叶わず、呼吸も忘れ、ただただ涙を流すことしか出来ずにいた。

 それは、天上の歌声を聴くことが出来たこの上ない誉れにか、それとも全身を浸していた地上の楽園が、幻に過ぎなかったと知った絶望にか。


 静まり返った会場を見渡し、ミアが不思議そうに首を傾げる。

 そして待機席で座していた双子姫へと視線を送ると、姫もまた涙を流し呆然としていた。自信に満ちあふれていた表情は蒼白に染まり、細い指先は微かに震えている。彼女たちがいままで笑って追い返してきた、憐れな吟遊詩人たちのように。

 彼女たちは、自分たちこそが詩の女神の口づけを受けて生まれてきたのだと、そう思っていた。周りもそう言っていたし、事実、これまでは誰も双子姫の歌には敵わなかった。

 だがそんなものは、ただ世界を知らぬがゆえの思い上がりだったと、深く、理解した。心底から恥じらいが湧いてくる。そしてそれ以上に、清々しいまでの敬意に満たされる。

 歌を愛していた。確かに歌うことが好きだった。それなのにいつの間にか、歌い手を聴衆の前で打ち負かし、惨めさに頬を染める様を眺めるために歌っていた己の無様を、傲慢を、純粋な歌声によって思い知らされた。

 愛していたはずのもので心が砕かれるというのは、こんなにも苦しいものだったのか。


「姫様」


 鈴のような可憐な声が、会場を小さく揺らす。

 己への失望で塞ぎかけていた姫の心をやわらかく撫でる、細く高い声に顔を上げる。


「とっても楽しかったわ。お歌を聴かせてくれて、そしてこんなに素敵な舞台で歌わせてくれて、ほんとうにありがとう」


 大粒の涙がまた一つ、姫の瞳から零れ落ちた。

 それはほんの十数年ながら人生で初めて味わった、完璧な敗北の涙だった。

 美しく薄化粧が乗った唇が、音を紡ごうと震える。


「……望みは、何ですの……?」


 姫が、挑戦者の望みを問う。

 それは即ち、自らの敗北を、皆に向けて宣言するということ。

 勝利を確信して止まなかった聴衆から、異を唱える声は上がらない。双子姫の片割れも、それを認めるかのように黙して俯いている。

 宮廷楽師への推薦も、思いつく限りの財宝も、全てを与えるに相応しい。全てを望まれたなら、喜んで差しだそう。そう、思っていたのだが。


「そういえば、そんな話だったね」

「どうしましょう。わたし、なにも考えていなかったわ」

「私もだよ。こんなことなら、執事くんやヴァンくんに必要なものを聞いておけば良かったね」


 姫も聴衆も、音もなく目を瞠った。

 此処を訪れる者は皆、例外なく富か名声、或いはその両方を求めて来る者ばかりであった。歌や楽器を生業とする者として、戯れに歌っているだけの姫を下せば何でも手に入ると聞いて来ては、双子姫の類い稀なる才に打ちのめされてきたというのに、彼らときたら。


「あ……あなたたち、仮にも冒険者なのでしょう?」

「財宝に興味がなかったとしても、もっと良い武具がほしいとか、馬車が壊れそうといったことはありませんの?」


 ミアとシエルが本当に困っている様子を見て、感服と僅かな呆れを抱いた姫が、助け船を出す。これほど素晴らしい歌を聞いておきながらただで帰すなど、姫の矜持が許さなかった。

 それを聞いて、ミアが「そういえば、馬車はなかったわね」と言ったのに、また姫は驚いた。


「馬車もなしに、あなたのような幼姫レディが何処へ行けると仰るの」

「そうだわ。でしたら、一等素晴らしい魔獣馬車を差し上げましょう。旅をしているなら、馬車はあったほうがいいもの」

「そうね、それがいいわ。今日に合わせて貿易船も来ているはずですものね」

「そうしましょう。それでよろしくて?」


 双子姫の怒濤の圧力に、ミアはただただ頷いた。

 それに安堵したのは、双子姫だけでなく聴衆も同様であった。芸術の根源たる至上の歌を魅せた幼き歌姫と清廉なる奏者に、これだけ貴族が集まっていながら、なにも贈らず帰すなど。


「では、明日の朝に宿へお届け致しますわ」

「楽しみになさって」


 姫は、ミアたちに晴れやかな笑みを向けると聴衆へ向けて手を広げ、良く通る声で言った。


「皆様、天上の歌声を持つお二人に惜しみない喝采を!」


 姫たちに贈られたものより更に激しく熱を帯びた喝采が、舞台を去る二人へ贈られる。

 またも兵士の手によって開かれた扉を抜け、背後で扉が閉まると、防音加工がされているはずの壁越しにさえ万雷の拍手がいつまでも響いていた。

 劇場の外に出れば、敗者の顔を一目見ようと集まっていた人々が頬に涙の痕を濃く残して佇んでいた。一部にはその場に膝をつき、呆然と空を見つめている者までいる。

 そんな人垣の奥に見慣れた二人の姿を見つけ、ミアとシエルは手を繋いで駆け寄った。


「クィン、ヴァン、ただいま!」

「お帰りなさいませ、ミア様。シエルも、お疲れ様です」


 飛びついてきた小さな体を抱き留め、クィンは甘く香る花咲くやわらかな髪を撫でる。


「ふふ、滅多にない経験で楽しかったよ。ねえ?」

「ええ、とっても! お外で歌うのもいいけれど、舞台で歌うのも楽しいわね」


 笑顔を咲かせ、甘い香りを纏いながら、ミアはうれしそうに報告する。

 花翼はこれ以上なく艶やかに咲き誇り、抑えきれない興奮を表すかのように、いつまでも花弁を舞い踊らせていた。

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