歌の傷跡
「ピエリスの願いは、何処にあるのかしら……? それがわかれば……」
そう、ミアが呟いたときだった。
さあっと風の流れる気配がして、周囲の景色が一変した。見渡す限りの草原と、青空。シエルの《劇場》だ。
「見てきてくれたんだね」
風が踊る草原の中、シエルは哀しげな笑みを浮かべて佇んでいた。
諦観と決意。相反するようで似通った感情を瞳に映して、一行を見据えている。
「あの女はアンタの何なんだ?」
まどろっこしいやり取りは不要とばかりに、ヴァンが核心に切り込む。
シエルは眉根を寄せて目を伏せてから、小さく「私の歌で狂ってしまった人だよ」と答えた。
「どういうこと?」
「彼女がバーの人気歌手だということは知っているね。以前はその人気に傲ることなく、客と歌を通して交流することが好きな、バードらしいバードだった」
「それが、どうしてあんなになっちまったんだ」
「私の歌を、聞いたからさ」
シエルは語る。哀しみの記憶を。
バーでいつものように歌った翌日。ピエリスは旅の吟遊詩人シエルに出逢う。彼は、街の広場で小さな竪琴だけを共にして、遠い異国の出来事を歌っていた。周りに客らしい客はおらず、誰にも見向きもされていないにも拘わらず、その歌声は伸びやかだった。
ミアが彼の歌を聞いたときに感じた、見も知らぬ異国を旅しているかのような臨場感を、彼女も鮮烈に感じたのだ。それは気儘に空想を歌ってきたピエリスの歌にはなかった、生の気配。
バーで彼女の歌を聞いて過去の恋に思いを馳せ、涙を流す人はいた。だがそれは歌の力だけではない、観客が持つ物語に追い風を乗せただけのこと。
知らない国の知らない景色を見せるほどの力は、彼女の歌にはなかったのだと理解した。
「失恋の経験がある人に失恋の歌を聞かせて、酒の席で涙を流させるのは誰にでも出来ること……それなのに、自分の歌に力があると思い上がっていた。彼女はそう捉えてしまったんだ」
その日から、ピエリスの歌声は荒れた。
手の届きようがないものを掴もうと冷たい水底で喘ぐ、絶望の歌を歌うようになった。そうしていつしかバーでの仕事も減り始め、益々彼女は荒れていく。自分の歌こそが至高のはず。歌ならば誰にも負けるはずがないのにと、妄執を募らせていく。その強い妄執に惹かれた魔石が、旅商人を通してピエリスに近付いた。魔石は持ち主に取り憑くと、主の願いを叶えようと囁きかける。
魔石の声を聞き続けた彼女は、やがて一つの結論に至った。
――――私の歌で、全てを支配すればいい。誰も私の歌を邪魔することがないように。
「彼女は、魅了と堕落を組み合わせた呪いの歌をバーで歌い始めた。このままでは、冒険者たちも街の人たちも、彼女を通して魔石の糧にされてしまう。……もう、逃れることは出来ない」
シエルが最初自らの口で語りたがらなかったのは、自分の歌が一人の歌い手を狂わせてしまった事実に胸を痛めていたからだった。彼は彼女に格の違いを見せつけるつもりで歌っていたわけではなかった。いつものように、ミンストレルとしての仕事をしていただけだ。
身も蓋もない最低な言い方にはなるが、ピエリスが勝手に傷ついて勝手に張り合っているだけの独り相撲だ。シエルは彼女になにもしていない。だが、能力の差や違いを、ありのまま飲み込める人ばかりではないのも事実。
狭い世界の女王でしかなかったと思い知らされたピエリスと、意図せず一人の女性を堕落させてしまったシエル。
誰一人加害の意図なく芽吹いた悲劇が、間もなく花開こうとしていた。