歌姫ピエリス
一度宿に戻って休息を取った一行は、日暮れ前にバーヴァニタスを訊ねた。
基本的にバーは夜間に営業するものだが、従業員を多く雇える大型店では、ギルディアにあったギルド併設のレストランバーがそうであったように、昼と夜に分けて営業するところもある。
海を一望出来る二階席が自慢のヴァニタスもまた、昼夜二部営業の大型店だ。いまは西日避けにレースのカーテンが下ろされているが、昼間は大きな窓から船と海を望むことが出来る。
「それにしても、どうしてその人は商船の奏船歌手を望んだりしたのかしら」
「抑も、バードがミンストレルと仕事をすること自体禁忌ですからね。演奏だけならともかく歌は絶対に。望んだところでどうにもならないことはわかっているはずなのですが」
ピエリスは売れっ子バードで、彼女目当てにバーを訊ねる客もいるほどだという。客にも困っておらず、いちバードの名声としては充分なはずである。
だというのに、何故騒ぎを起こしてまで『不可能なこと』を押し通そうとしたのか。
バードとミンストレルは同じ吟遊詩人と訳されるが、その役割は全くといっていいほど違う。
人気商売であるバードと、歴史資料であり真実の語り手であり、そして異種族との橋渡し役でもあるミンストレルは、決して気分やその場凌ぎで入れ替えられるものではない。ミンストレルは、偽りを謳うことが出来ない。つまり、路銀稼ぎにバードの真似事をすることが出来ない。そして、バードはたとえ真実を歌ったとしても、ミンストレルの謌と同じ扱いを受けることはない。
この違いは吟遊詩人当人だけでなく、冒険者やいち町人さえ把握している周知の事実なはずで、ピエリスが知らないとは思えないのだが。
騒ぎを目撃した者が噂を広め、仕事を減らされる可能性もある。人気が崩れることだって充分に考えられるだろうに、盲目的に求めた理由は何なのだろうか。
「彼女が望んだのが、エファルティティの大商船であることも気になります」
「それなんだが、エファルティティの船はこの港町を経由しねえで独自の貿易港を使ってんだよ。だから此処でいくら喚いても大商船の仕事はもらえねえし、だったらいっそ、エファルティティに直接乗り込んだほうが早えんだわ」
「それじゃあその人は、手に入らない物を手に入れられない場所で求めていたの……?」
益々もって謎が深まる。
大商業都市エファルティティは港町とエレミアとを三角形に結んだ位置にある。今回はあちらに用がなかったのと港町を目指すには遠回りになるため立ち寄らなかったが、大陸内で最も発展し、異大陸との交易が盛んな街といわれている。
アクティアファロスはあくまで玄関口。エファルティティこそが異文化交流の中心地と謳う者は多く、商人や冒険者のみならずアクティアファロスの民もそう自覚しているほどである。
エレミアにも多くの献上品を納めており、近年ではエファルティティの豪商が貴族並の発言力をつけてきているとも噂されている。
「そういやあ、ミンストレルに会わせろとも言ってたな」
「この街にいるミンストレルって……」
三人の脳裏に、シエルの顔が浮かぶ。
此処でいくらごねても商船の仕事は手に入らない。それは仮に魔石の影響を受けていたとしても理解しているはずの事実で、揺るぎようがないことだ。ならば、彼女の真の目的はもしかしたら、ミンストレルのほうにあったのではないだろうか。
其処まで過ぎったとき、店内が俄にざわめいた。
「おお、歌姫ピエリスだ」
「今日は来ないかと思ってたぜ」
バーの奥、一段高く作られたステージに一人の女性が立っていた。
夜の海のような、何処までも深く暗い闇色のドレスに身を包んだ黒髪の女性――――ピエリスは楽器も響声器も持たずに、物憂げな表情で一人舞台に佇んでいる。
そしてピエリスは、表情一つ姿勢一つ変えず、まるで呼吸の延長線上のように自然な所作で歌い始めた。
『Ella somnia no na mia finnera. glath tillia SS wrha shella yoa』
その歌声を聞いた瞬間、ミアは両手で口元を押さえて目を見開き、顔を青ざめさせた。
店内は水を打ったように静まり返り、先ほどまで酔っ払い特有の大声で笑い合い喋り倒していた人たちが、蝋人形のように固まってピエリスを見つめ、彼女の歌に聴き入っている。瞬きも呼吸も忘れて。歌を聞くためだけに、其処に設置されたかのように。
ハッとしてクィンがヴァンを見る。ヴァンもまた、他の客同様に、静止画のように固まって歌を聞いていた。
「……失礼」
「ッ!?」
クィンは手にしていたグラスの中身をヴァンの顔めがけて引っかけ、即座に彼の口を塞いだ。
冷たい酒の刺激にビクリと肩を跳ねさせて我に返ったが、一瞬なにが起こったかわからず視線を巡らせた。しかしすぐに状況を理解したヴァンは、騒ぐことなく小さく頷いた。
静止画の世界で、ピエリスの歌声だけが波の如く響いている。ヴァンは悪酔いしたような顔色で俯いており、ミアに至ってはスカートを握り締めて震えながらなにかに耐えているようだ。
ピエリスの歌が終わると、止まっていた時間が思い出したかのように動き出し、再び酒場らしい賑わいを取り戻した。人形のようだった客たちも、数分前のことなどなかったかの如く振る舞い、それぞれ酒に手を伸ばしたりつまみを口に運んだりしている。
切り取られた時間のことを記憶しているのは自分たちだけなのだろうかと過ぎりつつ、他の客に確かめる気にもなれない。
ヴァンたちはなるべく不自然にならないように食事を済ませてバーを出ると、宿に戻った。
その後ろ姿を昏い瞳がじっと見つめていたことに、三人は気付くことが出来なかった。