人と物の価値
爽やかな風が吹き抜ける。
草原が微かな音を立てて揺らぎ、大海原の如き雄大な波を作る。
「エレミアで君たちが詩魔法を使ったのを、風を通して知ってね。私は、歌に魔力を乗せることは出来ても、浄化の詩魔法は紡げない。其処で、君に頼もうと思ったんだ」
「それはもちろん、わたしたちの目的でもあるから断るつもりはないわ。でも……」
ミアは少し迷ってから、シエルを真っ直ぐ見つめて遠慮がちに言った。
「魔石の気配を見つけたなら、何処にあるのかもわかっているのではないの?」
ミアの指摘に、シエルは僅かに瞠目して、そして再び寂寞に満ちた微笑を浮かべた。
「……うん。見つけてはいる。わかっているんだ。でも、もしかしたらと思うと……」
「なにか、言えない理由があるのね」
シエルは俯き、消え入りそうな声で「ごめんね」と呟いた。
「君たちに解決してほしいのは本当。でも、どうしても信じられない気持ちもあって……君たちがこの宿に来たとき、受付の人たちの様子がおかしかっただろう?」
「ええ。何だか、あなたのことを隠したがっているような感じがしたわ」
「俺はてっきり、アンタが有名人だから隠してんのかと思ったが……違いそうだな」
シエルはヴァンの言葉にクスリと笑うと、そうだったら平和なんだけれどね、と言った。本当に他愛ない理由だったならどんなに良かったことかと、彼の眼差しが語っている。
「今晩、海沿いのバー、ヴァニタスに行ってほしい。……きっと、それでわかるはずだから」
なにかを耐えるような、覚悟を決めかねているような表情でシエルが言ったかと思うと、一陣の風が三人のあいだを吹き抜けた。波打つ草の音が駆けていき、視界が白く染まる。
思わず目を閉じた一瞬の間に草原の風景は消え、宿の部屋へと戻っていた。
「ヴァニタス……其処に行けば、彼が憂えている理由もわかるのでしょうか」
「恐らくな。本格的に酒場が開くのは日暮れからだ。いまは休んどけ」
二人にそう言いつつ、ヴァンは荷物の一部を持って扉に向かう。そして、ノブに手をかけながら片手を掲げ「ちょっと出てくる」と言い残し、退室した。
「私たちは少し休んでから、雑貨を買い足しに行きましょうか」
「そうね」
ミアは中央のベッドに腰掛けると、ふわりと心地良く沈む布団の感触に頬を緩めた。大きい宿を選んだだけあり、ベッドの質が良い。エスタの宿も決して粗悪なベッドではなかったが、サイズがヒュメンの平均身長に合わせたものだったため、背の高いヴァンは足がはみ出ていたのだ。
此処はヒュメンどころか大型獣人族でさえもゆったり眠れそうなベッドを使っていて、さすがは様々な種族が出入りする港町だと感心した。
「ねえクィン。バーって確か、ヴァンが言っていた情報収集をするのに便利なところよね?」
「ええ。冒険者や商人、町民が集う場所ですから、様々な情報が集まりやすいのです。私も実際に訪ねたことはありませんが……旅妖精の話に聞いたことはあります」
ヒト族について旅をする、旅妖精。
罠の察知や補助魔法、一人旅の話し相手などで呼び出されては冒険に付き添う妖精で、基本的に妖精郷で生涯を過ごす妖精の中でも変わり者に位置づけられている。派遣社員のような扱いなため通常なら呼び出すごとに違う妖精が現れるが、妖精に気に入られると半専属となることもある。
報酬は魔花の蜜や蜜で作った飴などが喜ばれ、報酬の質によって妖精の協力度が変わってくる。
閉じた世界の妖精郷において、外の情報を得る手段は限られている。その一つが、旅妖精たちの冒険報告なのだ。
「わたしも何度か外のお話は聞いたことがあるわ。でも旅妖精たちは、わたしにはあまりそういうお話はしなかったけれど」
「彼らも選んでいたのでしょうね。ミア様の使命を知っていたからこそ、妖精郷では不安も恐怖も知らずにいてほしかったのだと思います」
「クィンがそうだったように……?」
ミアの真っ直ぐな視線を受け、クィンはやわらかく微笑んだ。
「ええ、その通りです、ミア様」
花咲く理想郷。永久の安寧。享楽の泉。
優しい場所を離れ、冷たい風に吹かれるさだめを持つミアを誰よりも傍で見守って来たクィンの願いはいまも変わらず、ミアの心の平穏一つ。
「では、そろそろ参りましょうか」
「そうね。夜に備えて眠っておきたいもの」
クィンの手を取り立ち上がると、ミアは部屋を出て受付に鍵を預けた。もしヴァンが先に戻ってきたら彼に渡すよう告げて、外へ出る。
港町には、大洋を渡る大型客船や貿易商船だけでなく、漁を行う小型船や、個人が所有する中型観光船など様々な船がある。広い港をいくつかの区画に分けて、漁船の港と客船の港、観光客船の港となっている。
最も見栄えがする大型客船の港は街の入口付近にあり、町民が利用する漁船用の港は街の奥に。個人用の小さな港は入り江になっているところに作られている。
ミアたちは出港準備をしている客船を横目に、魔術道具屋を訪ねた。
「ご機嫌よう。此方で魔石の換金はなさっているかしら」
「おや。可愛らしいお嬢ちゃんだこと。珍しいね、フローラリアが港町に来るなんて」
魔術道具屋の主人は、魔石を用いたアクセサリーを親指以外の指全てに飾った、黒いローブ姿の老婆だった。店内には魔術に使う魔石やタリスマンなどが所狭しと並んでいて、ミアは花翼を棚にぶつけてしまわないよう気をつけながらカウンターまで進んだ。
「ゆえあって旅をしているの。でも、わたしたち魔石しか持っていなくて」
「なるほどね。それじゃあ不便だろう。構わないよ。どんな魔石を売ってくれるんだい?」
ミアはクィンから魔石をしまっている袋を受け取ると、中から一つ取りだして老婆の手のひらに載せた。途端、老婆の小さな瞳が深い瞼の奥で見開かれ、ミアをじっと見つめた。
「……お嬢ちゃん。これは随分と上等なものだよ。こんなのは、人里じゃあもう採れないはずさ。もしあるとしたら、エルフの森か妖精の郷くらいのもんだ。いったい……いや、其方のお兄さんは妖精族だね。とすると、妖精郷の魔石かい」
「ええ。そうよ。おばあさまは魔石を見ただけでわかるのね」
「そりゃあね。しかし、こんなに純度の高い魔石を無防備に出すもんじゃあないよ。ま、あたしは阿漕な商売は大っ嫌いだからいいけれどね、世の中まともな商人ばかりじゃあないんだ」
老婆はミアに忠言を送りながら、カウンターの下から金貨袋を一つ取り出した。嵩ましの銀貨や石ころが入っていないことを証明するように、浅く広い箱の上に中身を出して見せる。
「これ一つでこんくらいの金貨になるものだ。わかったかい?」
「えっ、こんなにたくさん……?」
「そうとも。物の価値は正しく知っておきな。でないと、とんでもない輩に騙されちまうよ」
静かな声で、老婆は続ける。
「仮にお前さんが気にしなかったとしてもだ。他の客や商人の相場を崩しちまうことだってある。気前よくばらまくのがいいことだとは限らないんだよ」
「わかったわ。……でも、わたしたちこれしか持っていないの」
どうすればいいかしら、というミアの相談に、老婆は暫し考え込んだ。
ミアもクィンも、魔石の相場すら知らない箱入りだ。今後、無防備に上等な魔石を出してしまう事態は避けられたとして、換金した金貨の袋をぶら下げていれば今度は其方が狙われかねない。
「それなら、いい案があるよ」
きょとりと大きな瞳を瞬かせるミアに、老婆はにんまり笑って見せるのだった。