花と詩の幼姫
――――ミア……インフェルミア……わたくしの血と魂に連なる愛し子よ――――
ふと気付くと、ミアは見知らぬ花畑にいた。
地平の果てまで続く色とりどりの花と、果てから果てへと広がる澄み渡った青空だけの世界に。
「ここは……? わたし、いつの間に知らないところにいたのかしら……?」
首を傾げ、答えがあるはずもないと知りつつ独りごちる。
頭上に手を触れればフローラリア族の証である花冠があり、長い髪にも白い花が点在している。後ろを見れば背にも花翼がある。まだ種族としての特徴が全て身に宿っているということは、突然天上界に召し上げられたわけでもなさそうで。
ならば此処は何処で、どうしてこんなところに独りでいるのか。
なにもわからないながら、不思議と不安にはならなかった。フローラリアにとって、花畑は魂の故郷。自身の原風景。そんな、安らぎさえ覚える風景の中だからだろうか。
「そうだわ。さっき聞こえた声の人は、どこにいるのかしら……」
立ち上がり、辺りを見回してみると、数十メートルほど先に人影が見えた。細やかなドレープが美しい、白いワンピースを着た長い金髪の女性だ。襟元や裾には色鮮やかな花が連なり、其処から花畑が広がっているかのように見える。
ミアが女性の元へ駆け寄ると、女性はふんわりと微笑んで両手を広げた。その瞬間、ミアの心に一つの言葉が浮かび、強い感情が湧き起こった。
「お母さま!」
歓喜に震える声でそう叫び、女性の胸に飛び込む。
見知らぬ女性だった。こんなにも美しい人は見たことがない。
抑もミアは、フローラリアでありながら妖精郷で生まれ育った、取り替え子だ。己の母も父も、姉妹がいるかどうかすらも知らずに育ったはずだ。だというのに、ミアの小さな唇は当然のようにその言葉を紡いだ。
心が、魂が、目の前の女性を強く求めている。帰る場所として。恋しい母として。
強い感情はミアの両目から涙となって溢れ、縋り付く豊かな胸元を濡らした。それすら愛しいとやわらかく撫でる手が、更にミアの心を郷愁で満たしていった。
「インフェルミア……漸くわたくしの声を届けることが出来ました」
嫋やかな腕に抱きしめられながら、ミアは女性の言葉を聞いた。そよ風のようでも、天上の鐘の音のようでもある、優しく澄んだ美しい声を。
「あなたに、伝えたいことがあるのです」
「わたしに……?」
未だ涙の滲む顔で女性を見上げると、女性は哀しげな微笑を浮かべてミアの頬を撫でた。
「ティンダーリアの封印が……終焉の魔石が、解き放たれてしまったのです」
ティンダーリアの封印。
妖精郷で平和に暮らしてきたミアでさえも、一般教養として学んだ言葉だ。
千年前に起こった魔石大戦。世界中を戦火の渦に沈めた、如何なる願いをも叶えるという強力な魔石を巡る戦いで生み出されたもの。それが、十二個の災厄の魔石。
魔力を帯びた鉱石は世に無数とあれど、戦の火種となり得るほどのものは滅多に発掘されない。そんな稀なる魔石の中でも特に力が強かったものを、終焉の魔石と呼ぶ。恐ろしい名の由来はその強大な魔力と、歪んだ願いの叶え方にある。終焉の魔石は願い石の一つ。ただ魔力が高いだけなら何の問題もなかったのだが。世界平和を願った結果、魔石は「国や種族が全て滅んでしまえば敵はいなくなり、世界が平和になる」と判断し、戦争を加速させた。
最終的に、当時のティンダーリア女王が封印し、代々封印の儀を即位の儀として執り行うことで護ってきたものだが――――それが、崩れたのだという。
「千年……終焉の魔石は封印されながらも、ティンダーリア王家を呪ってきていました。そして、その呪いは千年目にして漸く成ったのです。封印者である女王を死の病に冒すという形で」
「そんな……いまティンダーリアには、王子様しかいらっしゃらないって聞いたわ」
魔石の封印は、ティンダーリア直系の子孫……しかも、女性にしか執り行えないものだ。王子の元に嫁入りする形で即位した女王では成すことが出来ない。
いまから慌てて嫁を娶り、子をなそうとも、その子が運良く娘であったとして即位の儀が可能な年齢まで育つのを待たなければならない。抑も災厄の魔石がそんな悠長なことを許すなどとは到底思えず、ミアは不安から抱きつく腕に力を込めた。
ミアが泣きそうな顔で見つめると、女性は数秒目を伏せてから真っ直ぐにミアを見つめ返して、優しくも凛とした声で告げた。
「ええ……けれど、わたくしにはあなたがいます。女神の愛し子、インフェルミア」
「え……?」
目を丸くするミアに、女性は嫋やかに微笑みかける。悲哀と慈愛。深い後悔に懺悔を滲ませて。
「あなたはフラウルーシェとシャンテノーラの加護を色濃く引く、神代種族の姫……いまや唯一となった、魔石封印の資格を持つ子なのですよ」
「わ、わたしが……女神様の……? ティンダーリア王家の女性じゃないのに……?」
「ええ、その通りです。抑もティンダーリア王家が封印の力を持つに至った理由は、二柱の女神が加護を与えたがゆえ。あなたにも同様の加護が与えられているのです」
突然降って湧いた出自の答えに、ミアは困惑した。
ティンダーリア王家が、二柱の女神からの加護を受けていることは知っていた。しかしだからといって、フラウルーシェの子孫と言われているフローラリアが封印の力を持っているわけではないことも知っている。魔石封印は、花と詩の女神、両方の加護を宿した娘にのみ行える神聖な儀式。
ミアは妖精郷で生まれ育っただけの、ただのフローラリアだとばかり思っていたのだが。彼女の言葉を信じるなら、出生から既に運命づけられていたようではないか。
「それじゃあ、あなたは……わたしのお母さまである、あなたは……」
震える声で、ミアが呟く。
女性は長い睫毛を伏せて淑やかに頷き、ミアの額にキスをした。
「わたくしは花の女神、フラウルーシェ。フローラリア族の、始まりの女神です」
フラウルーシェは驚くミアをふっくらとした胸にやわらかく抱きしめ、小さく祈る。
「愛し子であるあなたに、過酷な運命を託してしまうわたくしを許してください。わたくしの魂は常にあなたと共にあります……どうか、あなたの詩で世界を調律し…………――――」
声が遠ざかり、風景が光にとけていく。
甘い花の香りがミアを包み、やわらかなものが唇に触れたのを感じたのを最後に、ミアは意識を完全にとかしてしまった。