月の魔物
深閑たる闇に覆われた夜の森。
木々の樹冠は空を覆い隠し、地上には一筋の光も届くことはない。
そこにはあらゆる生命が息づいているものの、およそ視覚など機能しない黒一色の世界では、ヒトに限ってはその存在を許されない。
――そう、闇の中ではヒトは生きてはいけないのだ。
またこの夜、広大な森の遥か頭上に続く宙、星々が瞬く無限の光の海に、それらを飲み込まんばかりに輝く明月が見下ろしている。
月はその眩さで、森林表面の細かな凹凸をあたかも風雅なモザイク画のようにあやなしていた。
絶えず柔らかく吹き続ける風。
小さく波打つ木々は、月が持つ神秘的な威圧感に平伏するかのようでもある。
ヒトのいない闇の上には、一転して光の世界が広がっていた。
しかし何者もその光を享受するばかりで、実に魅力的な月の前に黙することしか出来ない。
心奪われ、目を閉じることすら躊躇われるほど美しく輝く月は、それでも手を伸ばすこと能わず、全ての生命は諦めたようにその美しさだけを感じるのであった。
ただ一つの、例外を除いて。
森の木は、それらに意思があって互いに示し合わせたのではないかと疑うほど、ほぼ一定の樹高を保っている。
そうしてなだらかな表面が形成されているのだが、その中に一つ、まるで世の理に抗うかのようにに伸びた、それは高く、それは大きな樹が天へ向かいまっすぐにそびえ立っているのだ。
均衡を保たれた景色に一つ突き立てられた大槍を想わせるその巨木は、誰しもが平等に受け取るべき月の光を我が物とするつもりであった。
いや、意思を持たぬ樹がそのように目論む筈もない。
ただとにかく巨大なそれは、異質という言葉のほかは表現の埒外にあり、思わず行き過ぎた空想に耽ってしまうのも無理もないことであったのだ。
今一度、風が吹いて森を揺らした。
巨木もその雄大な体躯をゆったりとそよがせた時である、ほんの一瞬、煌めくものがあった。
それは頂点から少し下の、ほぼ真横に伸びた頑丈な枝の上からだった。
蛍などの柔らかな光ではない。もっと鋭く冷たい、攻撃的ともとれる光が、そこから放たれた。
つまりは明確な意思を持った何者かがそこにいるのだ。
それは枝の上で、腕組みをしてなんとも堂々と立っていた。
腰衣だけを身につけた体は見事なまでに鍛え抜かれており、刻まれたいくつもの傷跡が見る者にそれが穏やかならざる人生を送って来たであろうことを伝える。
力強い目は瞬きすることなく熱く月を見据えているものの、そこには若干の幼さが感じられた。
恐らく歳にして17といったところか。
そうして改めて見てみると、筋肉に覆われた少年の体はいささかアンバランスさを伴っているようであった。
彼が腰に差した小刀が風に振れ、月光を跳ね返した。
枝は揺れ、葉を散らせるが、少年は微動だにしない。ただ月を、睨みつけていた。
少年の名はカギロ。
今は闇に沈む森の中に故郷である村はあり、かつて迎えた試練の日に彼はそこを追い出された。
カギロの村では、12になった男子は神への信仰を示すために20日間の山籠もりをしなくてはならない。
短身の刀以外は身一つで試練に臨まなくてはならず、生きて村へ帰ることが出来れば晴れて勇敢な戦士として神から迎えられる。
カギロは村で一番の戦士となる筈だった。
卓越した肉体と精神を持ち、誰もが彼なら試練を乗り越えるだろうと信じて疑わなかった。
だがカギロは、戦士にはなれなかった。
神の使い、『神聖な獣』と遭遇し、それを殺したからだ。
あらゆる生物の頂点に君臨するその獣の前では、ヒトは抗う術も持たずにただ捕食されるのみ。
それはまさしく自然の理を表しており、『神の使いに出会ったなら命を捧げよ』というのが村の掟であった。
カギロは掟を破り、獣に抗った。
彼にとって最も大事であるのは神から授かった命なのであり、それを獣に捧げるなどという行為は神への冒涜でしかなかったのだ。
腕を噛み砕かれながら、武器の小刀で獣の息の根を止めたカギロは命からがら山を降りた。
村の長は深い傷を負ったカギロを迎え、こう告げた。
「お前に今後一切の村への立ち入りを禁ずる」
掟を破ったカギロは、神へ叛逆した異端として村を追放されたのだ。
神を誰よりも強く信じていると自負していた彼は憤るも、それに従った。
あまりにも冷徹な長の目が、村と己の信仰に大きなすれ違いがあることを伝え、それによって自らが異端であることを認めたためである。
以来、カギロは故郷から離れた森の中で一人、孤独に生きた。
粗末な家を建て、草や虫を食い細々と暮らした。
そして5年の歳月を経た現在、この巨木のてっぺんに立ち、月を睨みつけているのだった。
それはなぜか。
今宵、彼はまたしても掟を破るつもりでいた。
『満月の夜に出歩いてはならない』
村では、真円の月が昇る夜には『月の魔物』が現れ、人々の命を喰らうとされてきた。
古くから満月には神秘的な力が宿るとされ、それを畏怖した者による語り草がいつしか掟となったと考えられるが、カギロはそのような夢物語など信じてはいなかった。
なぜなら『神聖な獣』を殺したあの時、空にはまごうことなき満月が浮かんでいたのだ。
彼は『神の使い』と遭遇はしても『月の魔物』とは会わなかった。
たとえこの夜に『月の魔物』が現れたとしても、死の権化たる獣を葬り去ったカギロはそれを退治するつもりでさえいた。
だからわざわざ月に最も近いこの場所に立ち、狂った掟など下らない言い伝えであると証明しようというのだ。
しかし掟を破ることに一体どのような意味があるのか。
それはひとえに、彼自身の神への信仰を示すために他ならない。
『神聖な獣』を殺したことは、カギロにとって称賛されるべき行為であった。
誰よりも命を重んじ、誰よりも神を信じたと。村一番の戦士であると、そう讃えられる筈だった。
彼は自身を異端と認めながらも、村への怒りを抱いている。
そして誰にも受け入れられないまま過ごした5年間は、カギロの心を確実に荒ませた。
もはや彼自身が己を肯定することでしか精神を保つことが出来ないほど、カギロは孤独に曝され続けてきたのだろう。
自己の肯定とはつまりは掟を破ること。
煌々と輝く月を見据え、カギロは今こそ過去の自分が正しかったのだということを確かめようとしていた。
――実に筋の通らない話である。
『月の魔物』の掟を破ったとして、それがカギロの神への信仰に繋がる筈もない。
言い伝えの真実を知ることは出来ても、彼は単に村の教えに背いただけなのであり、やはり異端は異端であったと、その事実だけが真実味を帯びるに過ぎないのだから。
カギロとしても、それは重々承知していた。
ただ孤独な日々は彼に残された青臭さを破裂寸前にまで肥大させ、まるで駄々をこねる子供のようにこのような奇行へと走らせるに至ったのだ。
要は、彼はやけになっていた。
誰かに認めて欲しかったのだ。
異端でも戦士でもなんだって構わない、カギロという個人がこの森に生きているということを、皆にもう一度思い出して欲しかった。
しかし森は静寂に包まれ、巨木の上に立つ彼はどこまでも孤独である。
あれほど微動だにしなかった少年の体が微かに震え、目元に浮かばせた雫が月の光に輝く。
瞼を閉じたカギロは大きく息を吸い、全ての感情を押し込めた。
「思えば馬鹿らしいことをした。もう、帰るとしよう」
そう言って彼が月に背を向けた時である。
「カギロ、待ちなさい」
澄んだ、清涼な湧き水を想わせる声だった。
カギロはすぐさま振り返る。
それはなんとも、美しいとしか言いようがない少女の姿があった。
いや、少女ではあるが、顔立ちにはうっすらとした大人の凛々しさもあり、そうかと思えばやはり幼さがそれを覆い隠す。刻々と形を変える不思議な美しさに、カギロは言葉を失った。
そして何より彼を驚かせたのが、少女はその身に纏った幾重にも重なるヴェールのような着物をたなびかせ、月を背に浮遊していることだった。
光をその薄い布に染みわたらせ、空中に漂うその様はさながら星の海に浮かぶ巨大な海月といえよう。
だがそれは、確かに人の姿をしていた。
カギロは我を取り戻し、腰に差した小刀を抜いた。
「よもや現れるとはな。降りて来い。俺が殺してやる」
彼は勇敢にも言い放ち、得物を両手で握り直してそれを肩の高さに構えた。
言葉は少女の耳に届いた筈であったが、彼女は未だそこに留まるばかりでカギロのいる枝の上に降りて来る気配などない。
かと思えば不意に目を細め、実に悲し気に、憐れみの目でカギロを見つめるのである。
「なぜ、そんな事を言うのですか」
「お前が月の魔物だからだ。降りて来い。俺の命を喰らってみろ」
どこか身を委ねてしまいたくなるような慈悲に満ちた眼差しに、カギロは飲み込まれてなるものかと威圧するように少女を睨んだ。
「私が魔物に見えますか」
「月の魔物はヒトに化け、その美しさで人々を魅惑するとも聞く。しかし、残念だが俺の内に燃え盛る怒りの前にはどのような誘惑も意味を成さない。さあ、降りてきて俺と勝負をしろ」
「可哀想な少年よ、私が分かりませんか。お前はあまりにも強すぎる信仰心により村を追放された。5年という孤独な月日は、その尊い精神を鈍らせましたか」
「なっ……」
カギロの手にこめられた力が僅かに緩んだ。
表情を固めていた険は解かれ、困惑の色だけがそこには滲んでいる。
「なぜ俺を知っている。月の魔物が、なぜ俺を知っているのだ」
「見ていたからです、ずっと。同じように、お前も私を見続けていたではありませんか。故に異端とされてしまった……。これでもまだ私が分かりませんか」
「まさか、いや、有り得ない。お前が魔物などではなく、今まで俺が全身全霊をかけて信じ続けて来た、あの……」
ごくり、と唾を飲み込み、カギロは息も絶え絶えに言う。
「……『神』とでもいうつもりか」
「いかにも」
少女は柔らかく、ほのかな笑みで答えた。
カギロの心はこれまでになく揺れた。
神とは決してヒトの前に姿を現すことをしない。
それも異端である一人の少年に対し、微笑むなんてことは決して――。
「信じるものか」
彼はもう一度手に力を込め、刃の向こうから滾る怒りの火を少女へ向けた。
「そうでしょう。お前はこれまで、その幼い体では到底耐えきれぬほどの理不尽ごとに曝され続けた。もはや何者も信じることが出来ぬとしても、それはおかしなことではない」
しかし、と少女は続ける。
「どうか私だけは、神だけは信じ続けていて欲しい。どうかその穢れなき精神だけは、そのままであり続けて欲しいのです」
「どうしてお前が神であると、信じることができる」
「お前を孤独に追い詰めたのは私です。ならばささやかでも、せめてもの償いをしなくてはいけないでしょう」
「神が、俺に……?」
「お前の願いを一つ、叶えましょう」
「馬鹿な……!」
口では否定しつつも、カギロの頭の中には様々な望みが錯綜していた。
かつての村での生活。
村一番の戦士という称号。
そして、いつしか募らせていた人々に対する――。
「そう、お前は何のためにここまでやって来たのですか。それは己の信仰こそが正しいと証明するためではなかったのですか。つまりは復讐、かつて失われてしまった己自身に報いるため、お前は村の掟を破らんとこの大樹の頂まで登ったのではありませんか」
「俺は、俺は……」
「復讐とは己の内に完結することはない。意義深い犠牲と引き換えに自らの尊厳を取り戻す行為、それが復讐なのです。そしてお前は今、絶対の力を手に入れた」
カギロは頭を抱え、ふさぎ込んだ。
あんなに憎んでいた村が、今では愛おしく思えた。
しかし同時に、これほど愛おしく思う村が己を認めることなどないと分かっているからこそ、やはりどうしようもなくカギロは村を憎らしく思うのである。
「さあ言うのです。お前の内に滾る怒りとやらを、言葉にするのです。お前が望むのなら、あのような小さな村を炎の海に沈めることなど容易い。さあカギロ、願いを!」
声を張り上げるその顔は少女のように幼く、神のように厳格で、また悪魔のように凶悪であった。
既にそれはカギロの目前にまで迫っている。
彼は身を守るように体を縮め、複雑に渦巻く思考の中に溺れていた。
やがて小さく、囁く声が聞こえた。
「俺を……」
少女はさらに近寄り、声に耳を傾ける。
「俺を、愛してくれないか」
カギロはそう願った。
予想だにしない言葉に少女はのけ反り、着物をなびかせながらまた空へ浮かび上がる。
カギロは全てを理解していた。
帰る場所などないこと。
人々は少年を異端と憎み、自らも人々を憎んでいたと思っていたその実、とうに誰一人として己を覚えている者などいなかったこと。
そして復讐の虚しさ。
彼は孤独だった。
誰でも良い。せめて自分を、肯定して欲しかった。
心の奥底に強く鳴り響くは、結局のところ消し去ることの出来ない孤独であったのだ。
少女は言葉を失ったままカギロを凝視している。
無理もない。願いがとんでもなく突拍子もないことに加え、ある決定的な問題がそこにはあったからだ。
少女はヒトを愛したことがなかった。
欲に塗れたと言えばそうであるが、あまりにも幼く純粋な願いを彼女はまるで想定などしていなかったのだ。
カギロは顔を上げ、そんな少女を諦めたように見た。
「ふっ、冗談だ。こんなふざけた願いがあるものか。だが気は晴れた。月の魔物に一杯食わせることが出来たのだからな」
外連のないカギロの言葉は、少女へかつてない程の挑発として届いた。
彼女は再び僅かに寄ると、その威厳を保ちながらこう答える。
「私は何でも願いを叶えると言ったのです。そしてお前はもう願ってしまった。ならばそのように下らぬ世迷言でも、私は聞かねばならないでしょう」
「どうするつもりだ」
「お前が言うのです。お前が願ったのだから」
つまるところ、双方全くの無知であった。
急に居心地が悪くなり、カギロは辺りを見渡した。
すると目を引き付けるは、やはり今宵高く登る真円の月である。
彼は言う。
「……ならば、一緒にあの月を眺めるとしよう」
少女は訝し気な表情で、背後に輝く月を肩越しに見た。
「月?」
「そうだ。きっと、愛し合う二人はそういう事をする」
「愛し合う?」
「いちいち聞き返すな。降りてきて、ここへ座るのだ」
カギロは不器用に少女へ促すと、彼女はどうすればよいのか分からぬまま、それに従った。
まるで重さを感じさせぬ動作で枝の上にふわりと降り立ち、そこで少女は彫刻のように動かなくなってしまう。
「これで、良いのですか」
「分からん」
「いつまで、こうしていれば良いのですか」
「……分からん」
少女から僅かに顔を背けたカギロの目は、月を見てはいなかった。
月を見てしまえば、真っ赤に染まった顔面を彼女に気付かれてしまうからだ。
だがそれも無駄な策であった。全てを暴く明月は、紅潮した彼の耳すら例外なく照らし出す。
妙な気恥ずかしさから、少女も思わず微かに頬を染めた。
互いに言葉を発することもなく、巨木の枝の上に並んでいた。
しかしカギロも男としての自尊心くらいは持ち合わせている。
じり、じりと手を伸ばし、やがて少女の指に触れた。
彼女は驚き、咄嗟に手を引っ込めた。
「そういうのは、まだ早いのではないのですか」
「……そうだろうか」
「おそらく」
少女は自らの手を眺めて、深く考え込んでしまった。
もはや彼女は、ただの少女のようであった。
自分が一体何者であるのかの確信さえ薄れていくようで、耐えきれずカギロにこう尋ねる。
「お前にとって、私はまだ月の魔物であるのだろうか」
その問いに、不意にカギロは振り向き、少女の目を見つめる。
薄い飴色の、この月夜の中においてはそれこそ満月のような瞳が、小さく揺れた。
だが彼女はカギロの眼差しから逃げなかった。
二人見つめ合い、やがてようやく口を開いたカギロが答える。
「神とか魔物とか、今はどうでもいいような気がする」
「そうでしょうか」
「おそらく」
はっきりとしない口ぶりに少女の月が細く欠け、彼女は肩を震わせて粛と笑った。
今のカギロには何も分からない。
ただ、孤独ではなかった。
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