やばいよやばいよ~
『もか』は一応、モーニングの時間だったけど、いつも十時くらいまでドアを開け放して看板も下げてあるから、逆に誰も開店してるって気づかない。
マスター、朝から働くのは嫌なんだって。
でもオーナーさんとの契約で、モーニングやることになってるらしい。
「また来たの」
客に言うことばじゃないよね。まあ、ロクにお金払ってないけどさ。
ちょっと迷惑そうに目を細めて、マスターはそれでも珈琲を入れてくれた。
昨日の残りのチーズケーキもつけて。やったね。
「朝から珈琲の香りがすると、開店してるってバレるから嫌なんだ」
「少しは稼いだ方がいいよ。オーナーに追い出される」
「ただ喰いの客に言われたかない」
「珈琲は払ってるし、ケーキはサービスっしょ? 売れ残りだし」
「……で、今日の休暇理由は?」
「みつおさんが、電車に乗るのは不吉だから止めろって」
マスターが呆れてる。
「またすぐ後ろの人のせいにする。たいへんだね、女子高生のお守は」
ウチが勝手にみつおさんと名付けた、背後霊は全くその通り、みたいに何度もうなずいている。
マスターとみつおさんは、相性がいい、らしい。
マスターには姿は見えないんだけど、気配はよく判るんだって。
どの辺に座ってる、とか、うなずいてる、とか。
ま、ウチが座るのはいつもカウンターの一番奥の席だから、その隣にいるだろうってくらいは想像がつくでしょ?
でも、立ったり座ったり浮かんだりも、一応把握できるらしい。
初めて、何となく学校に行きたくなくて駅近くの路地をうろうろして来た時、あ、と珍しくみつおさんからアクションを起こしたんだ。
導かれるまま路地を入って行ってみつおさんが指さした先にあったのが、この小さなお店。
こげ茶色の木でできた外装と黒枠の窓、ぱっと見、ああここに建物? ちょい待ち、ここ火事に遭ったんでね? と思わせる埋没感だった。
よくよく見ると戸口が開いて、中からオレンジ色の灯りが見えたので、よかった、とりあえず焦げてたわけではないんだ、と気づいた。
しばらく前に立っていたら、玄関マットを持って出てきたマスターにこう言われたの。
「あんた……誰。なんで、そんなん、連れてきたの」
ウチに向かってじゃなくて、みつおさんに向かって、そう言ったんだ。
つうか『ソンナン』ってドユコト?? 後になってマスターに詰め寄ったらマスター笑ってた。
「ちがうちがう、平日の朝っぱらから、こんな場末の店に生身の女子高生なんか来ないだろ?」
みつおさんも、笑ってた。と言っても、全然声は聞こえないんだけどね。
みつおさんとは元々、あかの他人だ、と思う。気づいたら近くにいた。
お兄さんと言うにはちょっとくたびれているけど、おじさんと言うにはやや可愛そうな年齢あたりかな。
みつおさんについては、横浜のどこかにお家があって、奥さんと子どもがいて、お仕事中に何かあって亡くなった、ということしか知らない。
直接訊いたんじゃなくて、ここに寄るようになってからマスターに教えてもらった。
マスターにもみつおさんの声は聞こえないんだけど、これも雰囲気で何を言ったのか分かるって。
どうせウチが分らないからデマカセ言ってんじゃないの? と言ってやったらマスターとみつおさんが同時に
「んなことない、んなことない」
と両手を振ってみせたので、多分合ってるっぽい。
それでも、マスターにもあまり話はしてくれないそうで、それ以上のことは分らない。いつ亡くなったのか、とか本当の名前とか、も判らない。
みつおさんが霊として残っているのは、奥さんがまだ夫が生きていると信じていて、帰りをずっと待っているから、らしい。
「ウチがみつおさんちに行って、奥さんに説明してきてやろうか?」
そう言ってみたけど、これもマスターとみつおさんが同時に
「やめとけやめとけ」
と手を振った。
みつおさんだっていつまでもウチのお守なんて嫌だろうに。
だってさ、いつもしぶしぶついてくる、って感じだから。だから親切で言ってるのに、やめとけ、って何?
マスターいわく、あんまり生きている人と亡くなっている人との交流は無い方がいいんだって。
境界は境界として、あまり出入りがない方がお互い混乱しないし、それぞれの世界が崩壊しかねないから、ともっともらしく解説する。
だったらウチの立場はどーなるんだよ! と叫ぶよ、ウチは。
まあ、ウチだって見えるし聞こえることもあるけど、あまり興味ないしね。
逆にうざいから何もよけいなものは見たくない。
みつおさんだってあまり奥さんに心配かけさせるのも何だから、早く事実を知らせて成仏した方がいいに決まってる。
ところで今日のマスターは、グラスを拭きながら「そう、そう」と相槌うってる。
「キース・ジャレットから聴いちゃったからねえ、みつおさんも?」
みつおさん口が動いてる。しばらく聞いてからマスター、また、
「そうそう、ヘイデンのねー、いいよねー」
かかっていたBGMの話らしいけど、何のことかまるっきり分んない。
でもこのふたり、何だかんだ話が弾むようでさ。
まあ、こんな暮らしも悪くはないのかな、ってちょっと思っちゃったりしてね。
マスターはなぜか、自分に霊が憑いているかは、ぜんぜん『感じない』んだって。
「たぶん憑いてない。まれにそういう優れた人間もいる」
と、偉そうに言ってる。
だからたまに、話相手になれる霊が来るのが、楽しみなのだとか。
つうか普通の生きてる人間を相手にしてほしいもんだよ。
まあいい。とにかく、ここの珈琲はおいしいんだ。
一時間以上ダラダラしていたら、雨が少し弱くなってきたような気もして、
「やっぱ学校行くわ」
ウチは立ち上がった。
珈琲の分だけ、二百五十円カウンターの上に置く。
洗いものをしてるマスターは顔も上げずに
「やっと行く気になった。えらいえらい」
全然感動も交えずにそう言った。
横を見ると、みつおさんはすでにドアをすり抜けようとしている。
ウチはちゃんとドアを開けて、外へ出て行った。
ちりん、とかすかにドアベルが鳴る。
どんな静けさよりも、それは静かな音だった。
英文法のテストのこと、すっかり忘れてた。
休み時間のはずなのに、教室に入るとほとんどみんなして教科書を拡げてる。
こいつぁしまった! とみつおさんの方を見ると
(だから言ったでしょ)
みたいな顔された。言ってないじゃん! 少なくともウチには聞こえてませんし。
「むっちゃん、おはよー」
沙恵ちゃんがやって来た。
「さえちゃーん、ウチ、テストのこと忘れてたよぅ」
「ウチもだよ。一時間目からこっそり机の下に本拡げて勉強してた」
沙恵ちゃんは、背後霊にお父さんがついてる、ごくごく気のいい子。
最初お父さんに気づいた時思わずこっちからお辞儀しちゃって、向こうもびっくりしてたけど、今ではいい感じに無視し合ってる。
「まずいなー、早く来ればよかった」
「え、また『もか』でサボってたの?」
沙恵ちゃん、分かったぞ! みたいに悪戯っぽい笑い方をした。
「あー、『もか』でテスト勉してたんだ!」
「するわけねー」
慌てて否定する。みつおさんも揃って手を振ってる。失礼な。
「もう、無駄話してる間に少しでも暗記しよ!」
「無駄話より、無駄暗記だねー」
沙恵ちゃん、ニコニコとけっこう刺さること言うなー。
やばい。もう先生来ちゃったよ。
テストは散々だった。
いくらウチが、テスト勉強ロクにしていなかったからって、少しは自信はあったよ。英語が一番得意だから。
でも、教室の中、見てごらんよ。もう、例のごとく、霊がいっぱいなのよ。
物心ついた頃から見える、とは言ったけど、ここまでぎっしりばっちり見えるようになったのは、高校入った頃からだな。
気が散るのなんの。
始めの頃は、みつおさんに「教えてよ」とこっそり頼んだこともあったけど、みつおさんはいつも、テスト用紙を覗きこんで一通り目を通してから、だいたいは爽やかな笑顔で肩をすくめてみせるだけ。
背後霊の使えなさは半端ないわ。
教室の中にいる誰か(の霊)を頼ろうかと空しい努力もした。
ひとりだけ、東大受験経験のある、という男の霊がいるけど、ソイツがいちいち、
「あーそのフラタニティ、って友愛じゃ、ないんだけどな~~分んないかな~」
などと、聞えよがしに回りくどいことばっかり言うから、ぜんぜん参考にならない。
それに一回、「しめしめ」とほくそ笑みながらソイツの言う通りに書いて、思いっきり間違えたことがあった。
後は叫んでるばかりの霊、笑い続けている霊、霊どうしいがみ合ってるもの、ただ黙ってフラフラさまよい歩く霊、そんなのいっぱい満ちている中で、どう集中しろって言うのさ?
だからウチは、成績良くない。
運動も苦手って程ではないけど、団体競技に入り乱れる霊までよけようとして、先生から「動きが、かなり、ヘン」と言われるし。
唯一の取り得は、神経が図太いところかな。
それでも遅刻欠席も多いので、一応、虚弱体質ということにしてもらってるんだ。ごめんね。
でも友だちには「どこがキョジャクやねん」とよく突っ込まれてる。
物事に動じないように見えるらしい。
前に高原で学年キャンプやった時も、夜中にテントの4人で怪談になってね。
その時も怪談やってる子の周りで、おんなじようにそれぞれの霊が恐ろしげに話聴いてるわけよ。
みつおさんなんて、目つぶって耳ふさいでたし。
なみちゃんという子の番の時、
「……そこで、ふと後ろを向くと……」
となみちゃんが溜めたとたん、テントの外から
「ぎゃ~~~~~っっっっっ」
ってものすごい悲鳴がして、ウチだけ飛び上がっちゃった。居並ぶ霊たちも、びくっとなってた。
「なに、なに!!」
「外で誰か悲鳴あげた」
「いやーーーーーーーーーーーっっっっ!!!」
テント内はプチパニックだった。
たぶん、通りかかりの地縛霊とか浮遊霊とかがつい立ち聞きして、あまりの怖さにビビって叫んだんだろうけど、それを説明したら更にパニックは深刻になるだろうし。
でもその時のことをたまに蒸し返されて
「むっちゃんあまりにも血も涙もない冷静さだった」
と言われ、そこからタフネス、とか心臓に毛がふさふさ、とか言われるようになっちゃった。
確かに、霊については怖いということはないんだけど。
ちょっとうんざりしているのも事実だわ。
いつかもっと感受性が鈍ってきて、霊が見えなくなる日は来るんだろうか?
おばちゃんになったら、バーゲンとかに思いっきり飛び込んでみたいしね。
ウチの夢はそんなささやかなところよ。
放課後には、雨はすっかり上がって奇麗な夕焼け空が拡がってた。
詩的な気分も束の間、帰りのホームルームの後、学年主任の西上に呼ばれてしまった。
やばい。コイツはかなりヤバい。
「加藤、ちょっと来い」
つい、みつおさんを見てしまう。
みつおさんが、ついて行けよ、と合図していたので、その判断を信じて仕方なく付いて行く。
社会科の準備室。
西上はきっちり、ドアを閉めて向かいの椅子に「まあ座れ」と指示して自分も前の椅子に座る。
「近頃、また具合悪そうだけど……大丈夫か?」
「ああ、はい」一応正直に言ったよ。
「バスに乗ったら、あまりの混み具合で気分が悪くなって……途中で少し休んできました」
「途中で休んだ?」
「はあ、駅のコンコースの、椅子があるところ」
「ずっとか?」
「はい」
「……変なヤツも多いんだから、家に戻るか、学校の保健室まで来れるといいんだが」
「はい。すみません」
ウチが素直に応じているので、西上はちょっとほっとしたように息を吐いて、椅子の背にもたれかかった。
「加藤んち、母さんは市役所にお勤めだったっけ」
「保健センターです」
彼は少し顔をしかめ、胃のあたりに軽く手をやった。
この先生は、長くない。
とりとめない話をしながら、ウチはひとり、ぼんやり思っていた。
当てている手から透けて、西上の胃のあたりに、何かが青くぼんやりと光っている。
かなり昔から、それはそこにあったに違いない。小さく縮こまって。
それが、彼の守護霊だったから。
幼い頃から彼を怪我や病気、災厄から守り、彼の成長につき従い、助けてきたんだろう。
この頃、それは少しずつ大きくなっていたようだ。
そして、今は致命的な大きさだ。
「まったく。駅のコンコースで一時間以上も、座ってたのか」
「はあ」
西上の目が少し、何だかおかしな光を宿し、ウチはちょっとだけ身構える。
みつおさんは、何か感じたようでさりげなくウチの脇から離れて西上の脇に立った。
「ホント、おかしなヤツに絡まれてたんじゃないのか?」
そういう口調がすでに、おかしいヤツかも。
「いいえ」
「ホントか?」
「はい」
「どっか、連れ込まれたんじゃ、ないのか」
何だか息が乱れてきてる。まずい。
ずっと前に、噂好きの菅野から聞いた話を思い出す。
『……アイツさ、以前勤めてた中学で何かやらかしてさ……いったん辞めさせられそうになったらしいよ……好みが、その、独特つうか』
「何か、されてたり、してないのか」
「いいえ」
そう答える間もなく、ヤツが迫ってきた。通常の距離ではない。
かなり臭いやばい。
「あのな加藤」
息が臭いのは胃が悪いせいかもしれないけど、何だかヨコシマな匂い。
「先生はホント、心配してるんだ」
右手が伸びてきた。下に、下に。
「オマエの、そこが心配で……うっ」
急に倒れ込んでくる。
「せんせいっ!! ちょっ」
のしかかってきた西上を慌てて払いのける。
意外にも、ヤツはどん、と床に倒れ伏す。
何? 何が起こった? 西上をようやく押しのけ、床にあおむけになったまま目を上げる。
見事、ハイキックを決めたままのポーズで、みつおさんがそこに立っていた。
ゆっくり姿勢を戻し、こちら見おろしながらみつおさんの口が
(だいじょうぶか)
と、確かにそう動いた。
西上の守護霊は真っ赤に怒りまくっている。
ヤツの身体を透かし、禍々しい光が脈打っているのが判る。
それで、意識とんだらしい。救急車呼んだほうがいいレベルかも。
あー……みつおさん、やっぱ背後霊から守護霊に格上げね。